三好政権の重鎮となった久秀について、専横な振る舞いがあったはずだ、政権を壟断したに違いないと邪推する趣がある。実際に義輝の裁許に横槍を入れ、覆すなどしている。未遂に終わったものの、長慶の暗殺を何度も計画した義輝に圧力をかけるのは当たり前だろう。
また、軍事力だけでは首都京都を治められるはずもない。久秀は儒教・神道・国文学・漢詩・幕府法に秀でた清原枝賢を招き、その講義を受け、ついには自らの与力に加えている。
これは久秀だけに限らない。弟の内藤宗勝、息子の久通、家臣の楠正虎、同僚の三好長逸らは、枝賢をはじめ公家を招き、儒教から兵法まで学び、鎌倉および室町幕府が定めた式目の写本を作らせた。そのおかげで、現代人は原本が伝わらない幕府の基本法典を知ることができるのである。
久秀がいくら個人の能力を高めようと限界がある。また土豪層の出身であり、頼りになる譜代家臣などいない。外様で新参者の久秀にとって、権力基盤は長慶の信頼だけである。そこで、親族や与力・家臣を築きあげていく必要があった。
久秀の妻は少なくとも2人確認され、その1人が広橋保子である。久秀は保子を愛し、死去した際には奈良の音楽芸能を禁じた。その保子の兄は幕府と朝廷を繫ぐ武家伝奏の広橋国光であり、久秀は朝廷への交渉窓口を獲得する。また、保子の姉は後奈良天皇の室で、天皇と相婿の関係を形成した。
そして、筆頭家老に公家出身で荘園代官を務めるなど実務能力に長けた竹内秀勝をすえ、親王の教師を務める清原枝賢、南朝の忠臣楠正成の末裔と称し、後に信長の右筆となる楠正虎、柳生新陰流の開祖となる柳生石舟斎宗厳、福者に列せられた高山右近ジュストの父高山飛驒守ダリオを召し抱えた。当代一流の人物たちに、久秀は支えられていたのである。
永禄2年(1559)、久秀は日本最大の宗教権門である興福寺に代わり、大和を支配するようになる。久秀が築いた多聞山城(奈良県奈良市)は、南都奈良の寺社建築より壮麗で、信長の安土城に大きな影響を与えることになった。
三好政権との協調路線に転じた将軍義輝は、久秀を重視し、父義晴を支え「天下執権」と怖れられた六角定頼の官途である弾正少弼に正式に任官させ、久秀が後見人を務める三好義興と共に将軍直臣格の御供衆とした。
また、足利尊氏が後醍醐天皇から賜った桐御紋の使用を長慶・義興親子と共に許可した。朝廷も義輝や長慶と同じ従四位下に叙している。
桐御紋の拝領は、北条・武田・今川・朝倉・一色(斎藤)・毛利・尼子・大友氏が任命された御相伴衆より格上の待遇であり、久秀は一代にして、彼らを追い抜いたことになる。特に異例なのは、久秀が上位の家の姓に改めなかったことである。
当時は足利将軍家を頂点とし、厳然たる家格秩序が存在していた。例えば、越後守護代長尾景虎は関東管領上杉政虎(後に謙信)となったし、その家臣の樋口兼続は重臣直江氏の名跡を継ぎ、直江兼続となっている。
そうした価値観の社会の中で、久秀の出世は、室町時代を支えていた身分秩序そのものを覆す可能性を秘めるものであった。
更新:11月22日 00:05