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松永久秀は教養の高い知略家だった?…最新研究で見えてくる「梟雄の真相」

2021年01月05日 公開
2022年08月08日 更新

天野忠幸(天理大学文学部准教授)

 

三好氏の混乱と久秀の奔走

順風満帆に見えた久秀を悲劇が襲う。永禄6年(1563)に三好義興が病死したのである。落胆した久秀は久通に家督を譲り隠居した。翌年には自らを取り立ててくれた長慶も亡くなり、三好義継と松永久通が主導する体制が成立する。

永禄8年(1565)、怖いもの知らずの義継と久通は、将軍義輝を殺害してしまった。この状況に危惧を覚えた久秀は、義輝の弟義昭を保護する。

ところが、その義昭が朝倉義景の手引きで脱走した上、内藤宗勝が戦死して丹波を失う失態を犯してしまった。挽回を図る久秀は朝廷と交渉し、足利将軍家の象徴である御小袖の鎧と唐櫃を、義継のために獲得するなど、三好政権を朝廷に認めさせる。

しかし、三好長逸ら三好3人衆に反三好勢力を勢いづかせた失態を責められ、失脚を余儀なくされた。久秀親子は生き残るため、足利義昭や織田信長と同盟する他なかった。

永禄11年(1568)、義昭と信長の上洛作戦に功績のあった久秀は、娘を信長の嫡子信忠に嫁がせることになり、義昭の妹を娶った三好義継と共に、幕府の重鎮としての地位を確立する。従来、久秀は信長に降伏したとされてきたが、それは太田牛一の誤解である。

 

義継を擁し、三好氏再興へ

元亀元年(1570)、三好三人衆が本願寺や朝倉氏と結んで、義昭幕府包囲網をつくりあげた。苦境に陥った義昭は、和睦交渉を久秀に命じる。その結果、信忠に嫁がせることにしていた久秀の娘を信長の養女として、長慶の甥三好長治に嫁がせる条件で、三人衆方と義昭の和睦が成立した。

久秀にとって、五年間対立した三好長逸と和解する一方、信長との関係が途切れることになった。義昭幕府の脆弱さや、それを補うかのように、義昭が久秀の宿敵筒井順慶までも取り込もうとする姿を見た久秀は、元亀2年(1571)に挙兵する。

従来、武田信玄と結んで謀反したとされてきたが、それは無年号文書の比定ミスである。久秀の目的は、長慶時代のように、三好長逸と共に当主の三好義継を支える体制の再興であった。長慶の恩を義継に返したかったのであろう。

元亀4年(天正元年、1573)には、義昭も信長を見限り、三好・朝倉・武田氏を頼んだ。しかし、信長は朝倉氏を滅ぼし、義昭も京都から没落した。若江城(大阪府東大阪市)の戦いに敗れた義継は自害し、久秀は多聞山城を明け渡して、信長に降ることになる。

 

信長に反旗を翻したのはなぜか

久秀は天正2年(1574)に出家して「道意」と名乗り、再び隠居した。その後、久秀の活動は見えず、久通が信長に仕えている。しかし、天正4年(1576)、大坂本願寺攻めで苦戦する信長は、69歳の久秀に出陣を命じた。歴戦の強者である久秀を頼らざるを得なかったのである。

その一方、信長は室町幕府と同じく興福寺が好む筒井順慶に大和支配を命じ、久秀が心血を注いだ多聞山城を解体させるなど、その面目を潰し続けた。不満を募らせる久秀には、毛利・武田・上杉氏や本願寺を指揮し、信長包囲網を形成した現役の将軍義昭という受け皿があった。

天正5年(1577)、久秀は信貴山城(奈良県平群町)に籠城し挙兵する。この謀反を鎮圧するため、大和に派遣されたのが明智(惟任)光秀や細川(長岡)藤孝・忠興親子であった。彼らは久秀に何を見たであろうか。5年後の本能寺の変で、光秀と藤孝は別々の道を歩むことになる。

 

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