2020年06月22日 公開
2022年12月07日 更新
前野家文書『武功夜話』の作者は吉田雄翟である。
前野長康は、関白豊臣秀次の家老だった。しかし、秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、その責任を取らされて切腹している。子孫は小坂と姓を変え、雄翟の時に帰農して庄屋となり、のちに吉田と改姓した。雄翟が16歳で初陣した際は小坂姓であった。
その初陣は、関ケ原合戦の前哨戦である織田秀信の岐阜城攻めで、失墜した前野の名誉を、一族あげて取り戻したいとして、福島正則軍に属して出陣したのだ。
敵は山頂の城にいた。七曲りの急坂は味方の兵でひしめき合っていたので、戦の前の腹ごしらえと休憩した。
そこで父雄善は息子雄翟に「急坂なので足半(踵のない草鞋)を三足用意せよ。敵には必ず伴の二人と合わせ、三人で立ち向かえ。吾らは先に行くが、百歩と離れてはならぬ」などと事細かに指示した。
雄翟は幼い時、寺に七年ほどいたため武辺は疎かだった。坂道で上から聞こえる山崩れのような音におびえ、手足が動かない。
崖下の細道を上り詰めた時、数十個の石が落ちて来るのを、何とかかわした。油断せず七曲りの五合目まで来ると、山が大崩れするような音がして、鉄砲、鬨の声が鳴り響いた。父たちの姿を見失ってあせり、崖を上がろうとして大きく足を踏み外し、崖下に転落して足腰を痛めた。「不覚笑止の沙汰なり」と『武功夜話』で自らの失態を恥じている。
ところが今に残る下書きはもっと無様で、崖から落ちたのは噓だった。本当は木の根っこにつまずいて、親指の生爪を剝がして歩けなくなり、やむなく脱落してしまったのだ。
下書きでは、「侍の家に生まれてまこと恥ずかしい」と後悔している。だがさすがにこれは書けず、崖から転落したと脚色したのである。
その未公表の下書きには、「大人たちは戦争慣れしていて結構ずるい。しばらく待っていれば城はもうすぐ落ちる。それから攻めればいい。精鋭がいる真正面攻撃はやめよう。自分の命が危ないからだ」と、恐怖しか味わわなかった初陣の感想を率直に述べている。
関ケ原合戦で西軍を裏切り、徳川家康に勝利を贈った小早川秀秋は、なぜそのような裏切りに出たのか。その理由の一つに石田三成へのただならぬ憎しみがある。それは関ケ原の3年前、朝鮮における秀秋の初陣に起因する。
秀秋は秀吉の妻おねの兄・木下家定の五男で、秀吉夫妻の猶子となり、おねの養育のもと、利発な少年に成長する。だが秀吉が関白となると、従四位下右衛門督に任じられ、貴族の子と接触するようになって、酒や悪い遊びを覚え、手にあまる少年になった。
それでも身内の少ない秀吉は秀秋を優遇して、毛利家の重鎮・小早川隆景の養子にする。
さらに秀秋が16歳の慶長2年(1597)、秀吉は大名たちに朝鮮再出兵を命じ、お飾りながら秀秋を元帥に指名し、出動兵力14万1千人の頂点に置いた。
隆景が病没する中で、秀秋は釜山に渡る。時に加藤清正は蔚山倭城にあって、20倍の明・朝鮮軍に包囲された。これを救援救出すべく日本軍は敵勢を攻めた。
秀秋は自分も出陣するといい、「元帥自らの出陣はなりませぬ」との側近の制止を振り切って、馬に飛び乗り、敵陣に突っ込んだ。図らずも、これが初陣となった。
「これは大変」と皆が続いた。秀秋は備前兼光を腰から抜いて、馬上で片手で振り回し、馬の頭・馬の首に当たるを幸いに斬りつけた。強固な援護の支えもあって、13騎を自身の手で討ち取ったと『朝鮮記』にある。
この武功を、はじめ秀吉は絶賛したが、三成が「秀秋殿を褒めれば増長し、秀頼様の行く手の障害になりましょう」と忠告したため、態度を豹変させ、帰国した秀秋を「大将軍が自ら先陣を切るとは何事だ」と叱責した。
これが三成の仕業と知って、秀秋は伏見城で三成を斬ろうとしたが、一部始終を知る徳川家康に止められた。
その結果、秀秋は三成を憎悪し、家康に恩義を感じた。関ケ原の裏切りは三成への意趣返しだったのである。
更新:11月24日 00:05