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珊瑚海海戦こそ太平洋戦争の岐路だった!~アメリカは学び、日本は学ばず

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

井上成美は駄目な指揮官だったのか

また日本側は珊瑚海海戦で、海上航空兵力と陸上航空兵力の連携ができていなかった。

ラバウル方面の第二十五航空戦隊は、MO作戦に協力することになっていた。しかし、塚原二四三・第十一航空艦隊司令長官の指揮下にあり、井上成美には直接命令する権限がない。そのため、それぞれの判断で動き、機動部隊と陸攻隊の攻撃が嚙み合わなかった。この指揮系統不統一の問題も、その後、改善されてはいない。

要するに、「珊瑚海海戦を研究して、次の作戦の参考にしよう」という意識が、日本海軍に欠けていたのである。

なぜ、日本海軍は珊瑚海海戦に学ばなかったのか。大きな要因と思われるのは、MO作戦の不首尾を指揮官の井上成美に帰したことだ。

「井上は戦場での指揮官に適していなかったから、この作戦に関してはしょうがない」という風に見られて、「珊瑚海海戦は、さほど勉強するに値しない」という認識をもっていた節がうかがえるのである。

連合艦隊の参謀が第四艦隊からの電報に、赤鉛筆で「バカヤロー」とか「へたくそ」と書いていたという。これは史料調査会の上司だった土肥一夫氏から聞いた話だが、井上に対する連合艦隊司令部の評価を物語っている。

昭和16年(1941)12月、井上の第四艦隊がウェーク島占領を行なったとき、最初は荒天のために中止し、二度目で成功した。その前例もあって、「井上は戦争が上手ではない」という印象が強かったのだろう。

だから、早めに作戦を切り上げ、追撃しなかったことに対して、「敵の空母がいないのに、追撃しないのは逃げ腰だ」と、悪評が立ったと思われる。

しかし、日本側も祥鳳が沈み、翔鶴は甲板が使えなくなっていた。戻ってきた艦載機を収容するため、瑞鶴は損傷した飛行機を廃棄しなければならなかった。このような状態で追撃して、成果が上がるのか……。

海戦は「駆け引き」が非常に重要である。「駆け」は進むこと、「引き」は下がることだが、「進む」と「下がる」は同程度の重要性とリスクを抱えている。

日本ではアメリカの空母は2隻とも沈んだと思われていたが、実際にはレキシントンが沈んだだけだった。もし、本当に追撃していたら、翔鶴、瑞鶴が沈められる可能性は十分にあった。

私などから見ても、井上は戦闘指揮官というより、兵学校の先生が似合っているキャラクターではある。しかし、ウェーク島の占領に成功したとき、1回目と同じく荒天だったが、古い駆逐艦を改造した船とはいえ、現役の哨戒艇を海岸に擱座させ、上陸を敢行している。

まだ使える艦艇を放棄していいという命令は、なかなか出せるものではない。井上は戦場での決断力があった人だった。

こういう面も含めて、日本海軍が珊瑚海海戦の戦訓を十分に検討したとはいえない。その結果、ミッドウェー海戦でも同じような失敗を繰り返した。
 

実はシビアだったアメリカ軍

珊瑚海海戦の失敗に学んでおけば、ミッドウェー海戦の結果が違った可能性はある。その意味で珊瑚海海戦は、ミッドウェー海戦にマイナスの影響を与えたといえるだろう。

ちなみに、戦争初期の順調さが影響して、「いけば勝つ」と軍人が刷り込まれ、「敵は弱い」という認識しかもてなかったところに、日本海軍の弱さがあったと思う。

対するアメリカ海軍は、いざ戦うというときの緊張感においては、日本海軍より厳しかったかもしれない。

ミッドウェー海戦ではアメリカ空母の雷撃隊が全滅しているが、中には帰りが夜中になって着艦できないとわかっていても、出撃させられた部隊があった。実際、少なくない飛行機が海に落ちている。アメリカはできる限り搭乗員を拾ったが、特攻隊同様の命令が出されていたのだ。

また、レイテ沖海戦で日本の艦隊と鉢合わせしたアメリカ軍は、燃料が足りなくても空母から飛行機を飛ばしたし、爆弾を積んでいない飛行機も出撃させている。

爆弾をもたない飛行機に出された命令は、「機銃を撃つ真似をしろ。少しは影響がある」。そこには「動けるものは、なりふり構わず使う」というシビアさが見てとれる。
 

山本五十六の戦死

珊瑚海海戦に学ばなかったことは、連合艦隊司令長官・山本五十六の戦死にもつながったと私は考えている。

塚原二四三の麾下にある第二十五航空戦隊に井上成美が命令できず、陸上部隊との連携がうまくいかなかったことは前述した。似たような状況が、第三艦隊司令長官の小沢治三郎が担当した、昭和18年(1943)の「い号作戦」でも起こっている。

このとき、ラバウルに派遣した空母の航空隊は小沢の指揮下だったが、現地の第十一航空艦隊司令長官の草鹿任一がいろいろと介入し、小沢は思うように動けなかった。

そこで小沢は、トップの山本連合艦隊司令長官が現地に来るよう働きかけ、山本はラバウルに赴く。その結果起こったのが、同年4月18日の山本の戦死である。

珊瑚海海戦の失敗をきちんとチェックし、「階級の上下にかかわらず、一つの作戦は一人の人が指揮する」という教訓を得ていれば、山本五十六がラバウルに行くことはなかったかもしれない。

しかし、参考になるはずの経験を十分に生かさなかった。その結果、ミッドウェー海戦で大敗を喫し、さらには山本五十六の戦死まで引き起こした。

日本海軍に与えた影響を考えると、珊瑚海海戦は日本にとって非常に重要な戦いだったのである。

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