2019年12月19日 公開
2019年12月19日 更新
他戸親王は光仁天皇(白壁王)の王子で、母は聖武天皇の第一皇女・井上内親王であるから、これで皇位が安定すると思われた。
しかし1年余りの後、皇紀1432年=宝亀3年3月2日、皇后の井上内親王が呪詛の罪に連座し皇后を廃され、その後5月27日には、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。
光仁天皇即位から1年半、皇后は立后されて1年4ヶ月、他戸親王は立太子されて1年4ヶ月余りしか経っていない。井上内親王は天武系であり、天智系の光仁天皇の妃になっておられた。実に不可解な事件であった。
井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力したといわれる左大臣の藤原永手(藤原北家の祖・藤原房前の次男)が光仁天皇即位の5ヶ月後の宝亀2年2月22日に死去(58歳)したことが影響しているのであろう。藤原家内部において、藤原北家から藤原式家(藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系)への政権移動があった。つまり、藤原北家から式家へと政権基盤が移ったためと考えられる。
山部親王(桓武天皇)の立太子を目論む藤原良継(藤原式家の祖・藤原宇合の次男)や藤原百川(藤原宇合の八男)ら藤原式家一派が、光仁天皇の後嗣を強引に山部親王へと引き摺っていったと考えられる。
皇紀1433年=宝亀4年(773年)1月2日、「皇太子を立て給ふの宣命」を発せられ、妃・高野新笠所生の山部親王(桓武天皇)が、他戸親王に代わって37歳で皇太子に立てられた。
高野新笠は百済から大和朝廷へ人質として送られた武寧王の10世孫とされ、出身一族は6代前に帰化した。高野朝臣という姓は、光仁天皇の即位後に賜ったものである。
更に宝亀4年10月19日、難波内親王(光仁天皇の同母姉)の薨去(10月14日)も、井上内親王の呪詛による殺害という嫌疑がかかり、井上内親王は他戸親王と共に庶人に落とされて大和国宇智郡(奈良県五條市)に幽閉され、その後宝亀6年4月27日、その幽閉先で他戸親王(15歳)と同日に薨去された(59歳)。井上内親王(光仁天皇の皇后)と他戸親王(皇太子)を執拗に追い落として抹殺している。
いずれにしても、高野新笠所生の山部親王(桓武天皇)の立太子前に、井上内親王の呪詛連座事件があり、その直後にまた難波内親王の薨去に関する呪詛事件と追い打ちをかけるように事件が続く。
そしてついに幽閉先で親子とも不自然な死を遂げておられ、暗殺説は根強い。光仁天皇は後に嘆いて詔を発せられる。
皇紀1441年=天応元年(781年)2月17日、第一皇女・能登内親王(山部親王=桓武天皇の同母姉)が薨去される。
4月3日、天皇は病を理由に皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位される。そして「譲位の宣命」を発せられ、「……このような時には、とかく人々が良くない陰謀を懐いて天下を乱し、自分の一族一門を滅ぼしてしまう人が多いものである。もしこのような人がいるのなら、自ら教え諭し心を入れ替えて、それぞれ祖先の家門の誉れを滅ぼすことのないようにせよ。益々朝廷に励んで仕え、先祖からの忠誠心を益々継ごうと思い、謹んで、清らかで正直な心を持って仕えるべきである。天は高いところにあるけれども、低い地上の民の声を良く聞いているものである」と詔された。近臣に対して抗議しておられる。
4月4日、山部親王の同母弟の早良親王を立てて皇太子とされた。
天応元年12月23日、譲位されてからおよそ9ヶ月後、在位11年(10年半)にして73歳崩御される。皇統譜には在位12年とある。皇后・井上内親王と他戸親王の薨去から6年8ヶ月後のことであった。
更新:11月23日 00:05