現代の歴史学者・高柳光寿さんの解釈は、もっと辛辣だ。輝宗と政宗のあいだには、かなりギクシャクしたものがあり、政宗は、この機会に父親を始末するつもりだったのではないかというのである。たしかに義継の降伏を受け入れるかどうかでも、親子間で意見の違いがあったようだ。
義継は、最初から輝宗を拉致するつもりでいたわけではなく、伊達家の連中が、義継を謀殺する予定だと噂しているのを聞いて、とっさに思い立ったのである。高柳さんは、そうした噂を流したのも政宗の仕組んだことだと言う。政宗は、そうすれば義継は輝宗を刺すだろうから、親の仇といって討ち取ってしまう筋書きを立てた。ところが、思いがけず拉致という手段に出たので、父親もろとも撃ち殺すことにしたのだという。
いくらなんでも、政宗にきびしすぎる気もするが、政宗側に決定的に不利な材料もある。さきの「伊達日記」によると、事件の起きた宮森城にいた者たちは、武装する暇もなく追っていったが、あとから知らせを受けて出てきた小浜城の政宗配下の者たちは、ちゃんと甲冑を着け、騎馬でやってきたとある。いささか手回しがよすぎるといえるだろう。
また、義継主従50余人を射殺したというが、反撃の余裕を与えずに、これだけの人数を倒すには、その何倍もの鉄砲を用意する必要がある。それやこれや考え合わせると、高柳さんの言うところは、当たらずといえども遠からずというところかもしれない。
政宗は、父親だけでなく友軍の将兵も殺している。元和元年(1615)5月、大坂落城のとき、自軍の前にいた大和の神保相茂という者の人数を取り囲み、彼らが“味方だ、間違えるな”と叫ぶのも聞かず、主従30数人を撃ち殺してしまった。
かろうじて逃れた者が訴え出たが、政宗は、自軍の前にいてなだれかかってくるような者は、味方といえども打ち払わなければ、こちらも巻き込まれて敗軍になってしまうから、味方と知ってやったことだと嘯いた。この味方討ちのおかげで、自分の軍も崩れず、勝利につながったのだから、これは忠節であるとも彼は主張した。
ところが神保の人数は、敗走してきたわけではなく、城方の首など取って引き揚げてくるところだった。政宗にしてみると、自軍は少し離れたところにいたため、戦機にまにあわなかった。そこへ、ひと手柄立てた者たちが戻ってきたので、腹を立てたのである。この日、尾張徳川家の浪人で戦闘に自主参加した者も、同じ理由で伊達勢に殺されている。
将軍家のほうも、この時点で政宗を処分することもできなかったと見えて、この件はうやむやになってしまったが、世間の評判は悪かった。薩摩島津家の当時の記録には、政宗は「比興」だとあるが、道理に外れたヤツ、あさましいヤツというほどの意味だろう。
更新:11月24日 00:05