2020年02月28日 公開
2023年10月04日 更新
筑前には商港博多を擁する立花城、本州と九州を繋ぐ門司城、古来の軍事要塞である太宰府の三大拠点があり、両軍はこの三拠点を巡って約十年にわたり死闘を繰り広げた。
宗麟の前半生最大の危機は、永禄9年(1566)から太宰府を起点に燃え広がった重臣高橋鑑種の乱であろう。これより前、宗麟は宿将戸次鑑連(後の立花道雪)に命じて筑前の大名秋月家を滅ぼしていたが、時を同じくして毛利に庇護されていた遺児の種実が旧領に復帰して古処山城で挙兵し、西の大友と呼ばれた名門の立花鑑載も立花城で叛乱を起こす。さらには肥前で力をつけていた龍造寺隆信までがこれに呼応した。
鑑種が叛した理由は定かでないが、13年前の府内の乱で宗麟が実兄を殺害し、その妻を奪った報復ともされる。
四面楚歌に近い状況下で、戸次鑑連らは立花城を攻略して立花鑑載を討つ。さらに太宰府へ侵攻して岩屋城を攻略したものの、宝満城の攻略には至らず、秋月相手に休松の合戦で苦戦するなど、戦線は一進一退の状況にあった。
宗麟は遠く山陰の尼子家と結び、東西から挟撃する遠交近攻策を取って毛利に対抗するが、尼子を滅ぼした元就は本格的な北九州攻略に乗り出し、肥前の龍造寺攻めにあった大友軍の隙をついて、毛利両川の大軍を上陸させ、立花山城を再攻略するなど猛威を振るった。永禄十二年(一五六九)、両軍は香椎の多々良浜で対峙する。毛利軍は四万、大友軍は三万五千余ともされる。戸次鑑連が毛利両川を一時敗退させたものの決着はつかず、戦線は膠着状態に陥った。
ここで宗麟は、名臣吉岡宗歓の献策を採用する。大友家が保護していた大内家の血筋、大内輝弘を海路、山口へ侵攻させ、大内遺臣を糾合し、毛利の本拠を脅かす作戦であった。輝弘は若林水軍の助けを得て、秋穂浦に上陸する。仰天した元就の決断は早かった。全軍を九州から撤退させ、大軍で一気に山口へ取って返し、輝弘を敗死させた。
毛利撤退を受けて高橋鑑種は降伏、剃髪して小倉に隠居同然の身となる。秋月種実も降伏し、宗麟に赦される。宗麟は元就の九州侵攻の野望を挫き、商都博多を含む九州北部を最終的に確保したのである。
宗麟は40歳。この頃が絶頂期と言える。残る敵は、肥前の龍造寺隆信であった。
元亀元年(1570)、宗麟は龍造寺討伐のため6万ともされる大軍を興す。宗麟自身は佐嘉城から七里離れた高良山に本陣を敷き、末弟(従弟とも)の大友親貞を総大将として佐嘉城攻略を命ずるが、龍造寺の名将鍋島直茂の決死の奇襲により親貞が討たれ、大友は大敗する(今山合戦)。最終的に両者の間に和睦が成立し、大友軍は兵を退く。宗麟は筑前の立花城を戸次鑑連に、太宰府を甥の吉弘鎮種(後の紹運)に高橋家を継がせて配置し、守りを固めさせた。
この後、耳川合戦に至るまで、伊予に介入したほか、宗麟は積極的な軍事行動を起こしていない。天正4年(1576)、家督を長男義統に譲るころから、宗麟は急速にキリスト教へ傾斜していき、家中の宗教対立も激化していく。宗麟の不幸は後継者に人を得なかったことであろう。
大友は天正6年(1578)の「耳川合戦」を契機に一転没落してゆく。このころ、日向の伊東氏を滅ぼし急膨張する島津との対決は、不可避となっていた。宗麟は日向にキリスト教的理想国家を建設せんと約六万の大軍で侵攻する。日向南部で行われた決戦では、島津軍の圧勝。多くの将兵を討たれた大友家では「日向後家」の言葉さえ生まれた。
大友の敗戦と没落は内部崩壊に根ざしていたといえる。戦後、九州北部では宗麟に赦されていた秋月、高橋に加え、筑紫、宗像、麻生、原田、田尻、蒲池などが反旗を翻し、家中でも田原宗亀・親貫父子、田北紹鉄らが叛乱を起こす。立花道雪、高橋紹運の二将は大友家の衰退を食い止めるため、東奔西走して大小無数の戦を繰り返したが、趨勢は変えられなかった。
天正13年(1585)、大友軍の支柱であった道雪が陣没。追い詰められた宗麟は翌年3月、自ら大坂に出向いて、秀吉に臣下の礼を取り、九州派兵を約させた。六月から島津軍の侵攻が本格化すると、家臣が次々と裏切り、大友家は滅亡の危機を迎える。しかし、忠義を貫いた家臣たちもいた。有名な高橋紹運の岩屋城玉砕戦、立花宗茂による立花城防衛戦、吉岡妙林尼による鶴崎城防衛戦などは豊薩戦争時のエピソードである。
島津軍は戸次川の戦いで大友・豊臣連合軍を破るが、宗麟は臼杵の丹生島城に籠城して、大砲「国崩し」で島津軍を撃退、やがて20万を超える大軍で上陸してきた秀吉の前に、島津は撤兵する。宗麟は島津の降伏を見届ける前に津久見で病死した。享年58。
その後、大友家は豊後を安堵されたが、朝鮮戦役の失敗で改易の憂き目に遭う。義統(吉統)は関ヶ原の合戦で西軍に属して再興を夢見るが、これも石垣原の合戦で潰える。江戸時代の豊後は小藩分立となり、大友繁栄の残影を見ることは困難である。
宗麟は蹴鞠、能、犬追物、鷹狩、絵画、茶道など諸芸に通じた趣味人でもあった。私見では、宗麟は戦国時代にはふさわしくないほど寛容に過ぎる大名であった。寛容は魅力でもあるが、衰退期の相次ぐ叛乱を招いたと言える。なお近時、地元郷土史家を中心に、江戸期に軍記物を通じて確立された宗麟像を見直す真摯な動きがあることを付言しておく。
更新:11月22日 00:05