2020年02月28日 公開
2023年10月04日 更新
豊後をはじめ、肥前、肥後、筑前など、九州随一の勢力を誇った大友宗麟。キリシタン大名として語られることが多い彼の人生は、家督相続からすでに、決して平穏な道ではなかった。その波乱に満ちた生涯と実像に迫る。
※戦国最大のキリシタン大名、大友宗麟の名は当時、西洋にまで届き、ヴァン・ダイクにより肖像画まで描かれた。宗麟は諱を義鎮といい、後に受洗してドン・フランシスコと名乗ったほか、様々に改名改姓したが、本稿では「大友宗麟」で統一する。
小田原発祥の大友家は、源頼朝落胤説もある初代能直に始まり、鎌倉時代初期から約300年続いて、戦国時代を迎えた。
20代義鑑の長子として享禄3年(1530)に生まれた宗麟の母は二説あるが、中国の大大名、大内義興の娘とする説は、二階崩れの変の遠因が、義鑑による大内家の影響力排除にあるとの推測の前提となる。
天文19年(1550)、21歳の宗麟を廃嫡しようとした義鑑は、家臣らにより殺害され、宗麟が大友家の家督を相続する。この惨劇は、大友館の二階で起こったために、二階崩れの変と呼ばれた。仮にこの当主交代劇が宗麟の策謀であるなら、若き宗麟はすでに乱世の英雄の片鱗を示していたといえる。宗麟は、廃嫡に関わった傅役の入田親誠を速やかに討ち滅ぼし、肥後で反旗を翻した叔父の菊池義武も討伐する(菊池討伐)。
政変後の混乱を短時日で見事に収めて危機を乗り越えた宗麟は、運にも恵まれていた。翌天文20年(1551)、年来の宿敵、大内家の当主義隆が陶隆房の謀反で横死したのである(大寧寺の変)。大内の弱体化を受け、大友は北九州へ進出する。
このころフランシスコ・ザビエルが豊後を訪れ、府内で宗麟に謁見し、キリスト教布教の許可を得た。この邂逅が、後の宗麟の運命を決定づけた可能性がある。大友が引き換えに得た南蛮貿易の利は、中国・東南アジアとの積極的な交易を含め、その後の繁栄を経済面で支えた。
宗麟は陶隆房と連携して、天文21年(1552)には実弟の晴英を大内家の当主として送り込む。隆房は晴賢と改名し、晴英は大内義長と名乗る。義長は傀儡であり、5年後には毛利元就に滅ぼされる。
国内も平穏ではなかった。天文22年(1553)には宗麟が服部右京助らを討伐した府内の乱、弘治2年(1556)には小原鑑元の乱が起こった。後者は、大友一族である同紋衆と他紋衆との間のいわゆる氏姓の争いで、肥後をも巻き込んだ大規模な叛乱となったが、長引かずに鎮圧された。
先代義鑑は豊後に加えて政略で肥後の守護職を得ていたが、宗麟は天文23年(1554)には肥前、永禄2年(1559)には豊前、筑前、筑後を加えて6カ国の守護となり、九州探題職にも補任された。宗麟の外交能力は高く評価されている。
順風満帆に見えた宗麟の前に立ちはだかったのは、毛利元就であった。永禄4年(1561)、大友は毛利に大敗し、門司城を奪われる。宗麟と号したのはこの翌年とされる。
更新:12月10日 00:05