2019年07月22日 公開
2023年02月22日 更新
では、零戦における要求はいかなるものだったか。
先述したように、零戦はまず長距離飛行の能力が求められたが、開発段階では当然「戦闘機としての性能」も要求された。
結局、「格闘(空戦)性能」「航続距離(航続力)」「速力」という、三つどもえの要求がなされた。
これは、当時の航空業界の常識では、とうてい開発不可能とさえ思えるものだった。
にもかかわらず、海軍は優先順位をつけられず、エンジニアに「全部クリアしろ」と難題を押し付けた。
ところが、主任設計技師の堀越二郎は見事に、それを何とかまとめあげる。
そうして出来上がった零戦は、海軍の想像を超えるほどの出来栄えで、長距離飛行も格闘戦もできる万能機として、傑作と呼ぶにふさわしいものであった。
実戦でもいかんなく力を発揮し、昭和15年(1940)の中国戦線での初陣を皮切りに、真珠湾攻撃、南方作戦で戦果を挙げることとなる。太平洋戦争の前半においては、まさに最強の戦闘機として大空に君臨したといっていい。
だが、零戦にも欠点がなかったわけではない。
一例を挙げると、運用において「機械しか見ていない」という問題が起きている。
零戦は1000キロを往復できるが、パイロットが緊張感をもって飛べる時間には限界がある。零戦の最大航続距離を飛ぶなど、彼らからすればたまったものではない。
アメリカの艦上戦闘機であるF6Fヘルキャットの航続距離は、1700キロほどだ。半日もの間、戦闘機を飛ばしつづけるようなことを、アメリカ軍は考えなかった。このほうが人間工学的には合理的である。
それに対して、ガダルカナル島攻略戦でラバウルを飛び立った零戦は、過酷だった。片道約1000キロの道のりを飛ぶだけでなく、空戦をして、帰還しなければならない。
そのため、敵機にやられる以上に、長距離飛行によるパイロットの疲労で消耗してしまった。「操縦するのは人間」という視点を欠いたことで、「長距離を飛べる」というメリットが仇になったのである。
また零戦の弱点として、パイロット用の防弾板がなかったと、しばしば指摘される。
これは堀越の責任ではなく、要求と運用をする海軍の問題だ。要求段階と運用段階の欠陥を合わせて考えたとき、海軍は「機械とオペレーター(人間)をセットにして考えなかった」ということができよう。(談)
更新:11月24日 00:05