先の大戦に敗れた日本は、初めて「連合国」という名の外国の軍事力によって6年8カ月ものあいだ占領され、統治される経験を強いられた。
この占領期に関する記録や出版物は膨大な数に上っているが、写真を中心とした“目で見る占領史”は必ずしも多くはない。
当時、まだ時の状況を写真や映像に記録しておくだけの態勢が整っていなかったからでもあろう。
だが今日、「占領期」という時間が、いよいよ「歴史」となり、研究の対象として当たり前のものとなった。
今後、さまざまな新事実が究明されていくであろう、その時のために、現在の視野をビジュアルで示しておこうと刊行されたのが『写真でわかる事典 日本占領史』(平塚柾緒著、PHPエディターズグループ刊)である。
※本稿は、同書の一部を抜粋、編集したものです。
1945年(昭和20年)7月17日から米・英・ソの三首脳はドイツのポツダム市に顔をそろえた。暗号名「ターミナル(終着駅)」とされた会議の主題は、ヨーロッパの戦後処理に関する問題の討議で、日本の降伏問題はメインテーマではなかった。
会議が始まって1週間後の7月24日に、第8回会議が開かれた。席上、アメリカのトルーマン大統領が、日本に降伏を要求する最後通告の案文を示した。
案文はイギリスのチャーチル首相の賛成を得、中国の蔣介石総統の賛同も取って、7月26日に「ポツダム宣言」として日本政府に伝えられた。ソ連はまだ対日戦に参加していなかったので、宣言当事国から外していた(のちに参加)。
宣言は13カ条から成っているが、その骨子は次のようだった。
1)連合国による日本占領
2)日本の領土は本州・九州・四国・北海道とその周辺の諸島に限定されること(朝鮮の独立、台湾・満州の中国返還、南樺太のソ連返還、すべての占領地の放棄)
3)陸海軍の解散や軍国主義的勢力の一掃と自由主義の助長
4)平和で民主的な国家建設
当時の日本は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の主旨の下、政治や軍事の権力を天皇に集中させていただけではなく、天皇をいわば家長に見立てた家族的な国家観念の中で生活していた。
そういう形態を「国体」とか「国体観念」と称したが、ポツダム宣言を受諾して降伏することは、「国体」が制度的にも国民意識の上からも破壊されることを意味していた。
そのため宣言を受諾すべきか、拒否すべきか、最高戦争指導会議が開かれた。東郷茂徳外相、米内光政海相は国体護持を条件に受諾を説き、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長らは無条件降伏に反対を唱え、会議は暗礁に乗り上げた。そこにマスコミの誘導質問に引っかかったかのような、鈴木貫太郎首相の「(ポツダム宣言は)ただ黙殺するだけである」という発言が報道された。
この首相発言を宣言拒否と受け取ったアメリカは、最後の手段に出た。広島と長崎への原爆投下だった。
再び最高戦争指導会議が開かれたが結論は出ず、陸軍の若手将校の一部は「国体護持」を標傍し、本土決戦を呼号してクーデターによる降伏阻止を画策しだした。しかし、最終的には鈴木首相、東郷外相、米内海相らの強い意思表示を受けて、天皇自身による“聖断”で降伏が決定された。
更新:11月25日 00:05