2018年01月25日 公開
2021年08月31日 更新
昭和32年(1957)1月26日、外務大臣を歴任した重光葵が亡くなりました。終戦時に政府全権として、ミズーリ艦上で降伏文書に調印したことで知られます。
昭和7年(1932)、駐華公使を務めていた重光は、上海事変において中国側との停戦に尽力、停戦協定調印寸前に爆弾テロにあい、右足を失います。しかし重光は、「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかない羽目に陥る」として、右足切断手術の直前に調印を成立させました。
その後は10kgもある義足をつけて公務に復帰。翌年、リットン報告書により日本が国際連盟を脱退した際には、「欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」という手記を残しています。
その後も重光は、日中戦争を終結させて孤立する日本を救おうと奔走しますが、時勢はそれを許さず、けっきょく日本は対米英戦争へと突入していきます。太平洋戦争中は東条内閣、小磯内閣で外務大臣をつとめ、大東亜会議を実現しますが、戦局はいよいよ悪化していきました。
終戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で、重光は外務大臣に再任されます。そして政府全権として、ミズーリ艦上で降伏文書に調印するのです。
その後、重光は駐ソ大使時代に対立したソ連の横槍で、A級戦犯に指名されますが、服役後には鳩山内閣でまたも外相を務めています。そして昭和31年(1956)12月18日、日本の国連加盟が承認された国連総会に日本全権として出席した際には、次のような演説をしています。
「わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります」
翌昭和32年(1957)1月26日、重光葵没。69歳でした。日本の国際社会への復帰を見届けての他界であり、実に骨太の外交官というべき人物でしょう。
更新:11月22日 00:05