いわば、甲斐源氏・織田信長・徳川家康の血を引く小笠原忠真は、戦国時代の「サラブレッド」であった。
小笠原宗家を継いだ忠真は、2年後の元和3年(1617)に2万石加増され、播磨明石10万石に。さらに15年後の寛永9年(1632)には、豊前小倉15万石に移封された。これは、西国譜代大名筆頭として「九州探題」ともいえる立場で、九州の玄関口で九州全体と外様大名とを監視する役割を担わされたことになる。
忠真が小倉に入るのと同時に、同じ豊前の支城・中津城には忠真の甥(兄・忠脩の嫡男)・小笠原長次が、播磨龍野藩から8万石で入封した(5代藩主以後に播磨安志藩1万石に移封)。
また忠真の弟・忠知も豊後杵築4万石を与えられた。小笠原一族は、忠真を軸として大きな飛躍を果たしたことになる。
ちなみに杵築・小笠原家は後に三河吉田の初代藩主となり、幕末には6万石に加増されて、肥前唐津藩主となる。この唐津・小笠原家からは、幕末に老中として活躍し、戊辰戦争では箱館まで転戦した小笠原長行が出る。
なお忠真の姉は、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の正室に、妹は前小倉領主で熊本藩主・細川忠利の正室となっている。また正室・亀姫の父は、本多忠政(本多忠勝の長男、姫路城主)であり、このために、忠真は有力な大名との関係が深かった。とはいえ、あらゆる意味で忠真は、これら有力大名を超える血統にあったこともまた確かである。
忠真は、明石藩主の時代に剣豪・宮本武蔵と交流があり、その養子で播磨出身の宮本伊織(貞次)を近習として置いた。
伊織は政治力があり、僅か20歳で小笠原家の執政(家老)職に抜擢されている。そして小倉移封に従って2500石を与えられた。長年消息不明であった武蔵が小倉城下に立ち寄ったのは寛永11年(1634)、そのまま逗留した。
3年後の寛永14年に起きた「島原の乱」で伊織は、侍大将・惣軍奉行として出陣し、武蔵も軍事顧問格で同道している。この乱に戦功があったとして、忠真は伊織に1500石を加増し(4000石)、小笠原家中の譜代・一門衆を飛び越える形で筆頭家老に抜擢した。「武蔵の養子」としての伊織でなく、「政治的能力」ゆえの抜擢であったことは、忠真の人を見る目の確かさを示していよう。
伊織の子孫はすべて、小倉小笠原家の筆頭家老を世襲し、明治維新まで仕えている。
寛永17年(1640)2月になって武蔵は、熊本・細川家に食客として招かれ、小倉を去った。
それからの忠真は、趣味と文化に生きた。茶の湯は、茶人・古市了和(古市流家元)を招いて、小笠原家茶道古流を完成させた。大和出身の流祖・古市澄胤(村田珠光の高弟とされる)に連なる茶人である了和を、忠真は執政の一人がその門人だったことから、小倉に招いた。了和はそのまま茶道頭として小笠原家に仕え、子孫も幕末まで仕え続けた。その点からも、忠真は大名茶人として知られることになる。
忠真のもう一つの文人趣味は、上野焼である。文禄の役の際に加藤清正に連れて来られた朝鮮人陶工・金尊楷(後に日本名・上野喜蔵高国)が、唐津に落ち着いた後に朝鮮に戻って高麗青磁の技法を学び再来日。茶人でもあった細川忠興が小倉藩主時代に、茶道具の焼き物のために尊楷一族を招き小倉に窯を開かせた。
忠真は、細川家が熊本に移封後、残されたこの本窯を庇護し、育成して藩窯とした。小笠原家茶道古流を完成させるにあたり、上野焼の茶器を使ったものと思われる。
さらに小倉藩主としての忠真は、明から来日していた黄檗宗(臨済宗黄檗派)の高僧・即非如一を寛文4年(1664)、小倉に招き、翌年に黄檗宗・福聚寺を創建し、如一を開山とした。
この福聚寺はその後、小笠原宗家(忠真家)の菩提寺とされた。
こんな逸話も残されている。忠真は、糠漬けを好み、松本から明石に移封の際も、明石から小倉に移封の際にも、糠床を持ち込んだという。その「糠漬け趣味」を領民にも奨励しており、人々も好んで食したと伝えられる。
小倉には実際、糠床を受け継ぐ家も多く「百年床」と呼ばれている。忠真と領民との絆を想わせる逸話であろう。
忠真(官位は従四位下・侍従・左近将監)は、寛文7年(1667)10月、死去。享年72。長命を保った戦国武将であった。
※本記事は歴史街道2019年4月号に掲載したものです。
更新:11月22日 00:05