2019年01月24日 公開
2019年01月24日 更新
秀吉がつくり出した新価値社会とも言うべき日本の国土を受け取った徳川家康には、有名な人生訓がある。
「人の一生は重き荷を負いて遠き道をいくがごとし。急ぐべからず」
家康がなぜこんな我慢強い人生観を持つようになったかと言えば、かれは六歳のときから十八歳のときまで、織田家と今川家の人質になっていたからである。かれが生まれた松平家は岡崎に拠点を持っていたが、西の織田と東の今川の挟み撃ちにあって、現在で言えばいつなんどきM&A(合併及び買収)されるかわからなかった。当時の弱小豪族の苦しみである。そのために幼い家康は、あっちへやられたりこっちへやられたりの人質生活を送っていた。
今川家の人質になっていたとき、家康は駿府(静岡市)に住んでいた。あるとき、ある人が九官鳥を持って訪ねてきた。
「この鳥は、人間をはじめいろいろな声の真似をします。お慰みになりましょう」
と言った。家康は断った。持ってきた人は、
「なぜですか?」
と多少不快な表情をして言った。
(せっかく好意でおもしろい鳥を持ってきてやったのに)
という表情をしていた。家康は言った。
「この鳥には自分の声がない。ただ他の真似をするだけだ。わたしには自分の声がある」
持ってきた人はびっくりした。家康はさらに言った。
「こういうものを届けるおまえも、九官鳥と同じだ」
そして二度とその人間をそばに近づけなかった。家康の人を見る目は厳しかった。それは、人質生活がつねに緊張を強いられていたからである。
また、近くの安倍川を通りかかったあるとき、子供たちが石合戦を始めるところに出くわした。石合戦というのは、川の両側に分かれて石をぶつけ合う遊びだ。供をした武士が、
「若さまはどちらが勝つとお思いですか?」
と聞いた。両岸に分かれた子供たちは、一方が多勢で、一方は人数が少ない。家康は、
「あっちだ」
と人数が少ないほうを示した。供は笑った。
「反対でしょう。石合戦はなんといっても人数が多くなければダメです。こちらが勝ちますよ」
「いや、そんなことはない」
家康は頑強に人数の少ないほうが勝つと主張した。合戦が始まった。結果、家康の言ったとおり人数の少ないほうが勝った。供の武士は驚いた。
「なぜおわかりになったのですか?」
と尋ねる武士に家康は説明した。
「人数が多いほうは油断している。だから、石を投げるときも、たとえ自分が投げなくてもだれかが投げるだろうと手を抜いている。ところが、人数の少ないほうにはそんなゆるみは全然ない。自分が投げなければ、負けてしまうという責任感に満ちている。それがみんなの気持ちを一つにしている。だから結束力が強い。人数の少ないほうがかならず勝つと思ったのは、人数の少ない側に鋭い気迫がみなぎっていたからだ」
自分の立場に置き換えて、家康はこういう見抜き方をしていたのである。
信長・秀吉という二人の先輩が残していった天下を長く維持管理するためには、
「細かい緻密な目」
だけでなく、
「たゆまぬ緊張感」
が必要になる。その緊張感をつねに家康が持っていた例として、有名な言葉がある。
「水はよく舟を浮かべ、また覆す」
というものだ。〝水〟は部下、〝舟〟は主人の意味だ。
「部下は水のようによく舟を浮かべてはいるが、ときには波を立ててひっくり返すこともある」
という意味だ。もっと突っこめば、
「主人は部下に全面的に気を許してはならない。いつ裏切られるかわからない」
という意味である。したがって家康は基本的には、
「部下に対する不信感」
を持っていた。しかしかれが信長・秀吉の行なった事業を引き継いで、二百六十年もの長い間天下を維持する礎を築くためには、何よりもこの緊張感が必要だったのである。したがってかれの〝人を見抜く目〟は、これがモノサシとしてつねにものを言った。
このように、信長・秀吉・家康の三人の天下人は、それぞれの、
「目的に合った能力の持ち主」
の探索をモノサシにして、人を見抜く目を養っていったのである。
※本稿は、童門冬二著『信長・秀吉・家康の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月24日 00:05