2018年10月09日 公開
2018年10月15日 更新
長尾政景と宇佐美定満が溺死したとされる野尻湖(長野県)
伝えによれば、永禄7年(1564)7月のことだという。宇佐美定満は、坂戸城に行った。そして長尾政景に、
「いかがですか? 野尻湖に出かけ、湖上からあたりの風景をご覧になりませんか? たまにはよろしいでしょう」
と誘った。
まさか宇佐美定満に深い謀り事があるとは知らない政景は、これに乗った。野尻湖に着くと、定満は先に舟に乗って、揺れを押さえながら政景に、
「どうぞ」
といった。政景が乗り、続いて政景の供の侍が乗ろうとすると、定満は止めた。
「いや、ふたりだけでいい」
供の者は変な顔をして、
「しかし、舟を漕ぐ者がおりません」
といった。定満は笑って、
「舟はおれに任せろ。おれは、子供のときから舟を漕ぐのがうまいんだ」
といった。そのいい方が実に素直なので、政景も供の者も信じた。政景は、
「それでは、宇佐美のいう通りにしよう。おまえは岸で待っていろ」
と命じた。供の者の顔には、まだ不安の色が残っていたが、主人の命令なので、黙って岸に膝をついた。自慢しただけあって、宇佐美定満の舟の漕ぎ方はうまかった。竿を操り、ドンドン湖の真ん中に漕ぎ出していった。まわりに舟の影すら見えないところまで来たとき、定満は舟を漕ぐのをやめた。そして、舟の胴の間に、用意してきた酒や食べ物を並べた。
「さあ、飲みましょう」
といって、政景に酒を注いだ。政景はこれを受けた。そして、あたりの風景を見回しながら、
「おまえの誘いに乗ってよかった。近くに住みながら、こんなにこのあたりの風景が美しいとは思わなかった。なるほど、湖というのは、ただ岸から眺めていただけではだめだ。湖上に来てみなければ、岸の風景の美しさがわからない。いいことを教えてくれた。何か、気分もさっぱりした」
無邪気に喜びながら、そういうことをいった。定満は、
「そうですか。いや、そういっていただけると、私もうれしゅうございます」
とうなずいた。酒が進みはじめると、定行は、突然、船底のくさびを抜き取った。さらに、櫂を遠くへ投げ捨てた。驚いた政景が、
「何をする!?」
と食ってかかった。定満は落ち着いていた。舟にはどんどん水が入ってきた。あわてた政景は、
「宇佐美! 狂ったか!」
と叫んだ。しかし、すでに膝まで来た水の中で端然と座ったまま、定満はこう応じた。
「狂ってはおりません。正気でございます」
「このおれをおぼれさせる気か!?」
いまは完全に定満を疑った政景は、そうわめいた。定満はうなずいた。
「その通りでございます。あなた様のお命をちょうだいいたします」
「馬鹿な!」
政景は叫んだ。そして、
「これは、謙信が命じたことか? それとも、おまえの一存か?」
これに対して、宇佐美定満はこう答えた。
「わたくしの一存でございます」
「何!」
いよいよ険悪な表情になった政景は、少しでも水からはい出ようとして、舟の両へりを強く手で握り、腕の力で体を浮かせるようにしながら、定満をにらみつけた。定満は、こうつけ加えた。
「しかし、これは謙信様のご意思でもございます。あの方は何もおっしゃいませんが、謙信様とわたくしとはピッタリ息が合い、いわば“あ・うん”の呼吸で生きております。いま、あなた様のお命をちょうだいしても、謙信様は、おそらくわたくしをお咎めになることはないと存じます」
「冗談ではない! 謙信とおまえに殺されてたまるか!」
そうわめくと政景は、いきなり身を躍らせて、湖に飛び込もうとした。定満は、着物の裾をしっかりと押さえて、それを妨害した。すると政景は、今度は定満に向かって飛びかかってきた。組み討ちになった。しかし、このとき定満は、心の中で、
(しめた!)
と思った。
飛びかかってきた政景を両手を広げて受けとめると、定満はしっかりと抱き込んだ。そして、政景の体を囲った手を、かんぬきのようにガッチリと組んだ。鎖のような力が、グイグイと政景に加えられた。政景は真っ青になった。
「手を離せ! 貴様、主筋に向かっていったいなんということをする! 離せ、戯れはやめろ!」
しかし、定満は離さなかった。
「戯れではございませぬ。あなた様のお命をちょうだいしなくては、越後の国の安泰がはかれません。謙信様のご事業を真っ先に妨げるのは、あなた様でございます。あなた様さえ、この世から亡き者にしてしまえば、ほかの豪族はたちまち謙信様に屈することでございましょう。どうぞお気を安らかに、ご最期をお遂げください。その代わり、わたくしもお供をいたします」
「冗談ではない。おまえなど供をしなくてもよい。離せ! 手を離せ!」
政景はわめき続けた。が、宇佐美定満はガッチリと政景を抱いた手を組んだまま、
「お許しあれ!」
と叫ぶと、いきなり水の中に飛び込んだ。そして、深い湖底へ沈んでいった。政景は、必死の力をふりしぼってもがいた。しかし、泰然と政景を抱きつづける定満は手を離さなかった。やがて、ふたりはおぼれ死んだ。死ぬ直前、定満は心の中で謙信に向かって叫んでいる。
「政景様は、この定満が始末いたしました。どうぞ、越後平定のためにご活躍ください。長尾政景様さえ片づければ、ほかの豪族は、おそらくあなたの命令に従うでしょう」
長尾政景と宇佐美定満が、野尻湖で舟遊びをしておぼれ死んだという報告は、すぐ上杉謙信のもとにもたらされた。謙信は、この報告をきくと、
「宇佐美定満が!? なんという馬鹿なことを!」
とはじめは憤慨した。しかし、報告に来た部下から、
「実はこういうわけで、宇佐美殿には深いお考えがあってのことでございます」
という説明を受けると、謙信はうなだれた。そして、
「そこまでしなくてもよいものを」
と低い声でいった。
が、月日が経つにつれて、謙信には宇佐美定満の行為の意味がよくわかってきた。長尾政景が溺死して以来、彼に対する長尾一族の態度がガラリと変わったからである。宇佐美定満の行動は、それだけの意味と重みがあったのである。
宇佐美定満は、自分自身を犠牲にして、上杉謙信のこの当時の最大の敵であった長尾政景と心中を遂げたのであった。
現代に即して、こういう行為をどのように位置づけていいかわからないが、戦国時代には、このようにトップに殉ずるようなナンバー2もいたのである。
ただし、この話には異説もあって、
「いや、上杉謙信はそんなことを命令しない」
という説も現地では有力だ。それは、
「上杉謙信を悪者にするために、ある歴史家がそういうことを書いたのだ」
というのだ。ただ、長尾政景が溺死したことは確かだ。あるいは、この異説のように、この溺死事件を歪曲して、謙信を悪者にしたのかも知れない。が、たとえ謙信が知らなくても、宇佐美定満個人の考えによって、こういう行動に出ることは、当時としては十分に考えられるのである。
※本稿は、童門冬二著『戦国武将に学ぶ 名補佐役の条件』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月24日 00:05