「世の中は、時々刻々変転極まりない。機来たり、機去り、その間実に髪をいれない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしても、それはとても及ばない」
これも、彼が社会の実相を重んじて虚相を軽んじた、という人生態度の表われだ。彼は、とにかく机の上の小理屈が嫌いだった。まず行ないである。
彼が、自分の考えに近い、と見た人物が二人いる。一人は西郷隆盛であり、もう一人は横井小楠である。この、
「世間は生きている。理屈は死んでいる」
という言葉を口にした時に、彼が例に引いたのは横井小楠であった。そういう眼識があったのは小楠以外ないと言い切る。
このように、死んだ学問よりも生きた世間を重視するという考えをもっていた勝は、よく町を歩いた。これは、長崎の海軍伝習所にいた頃、オランダの教官から教えられたことである。
「時間があったら、市中を散歩して、どんなことでも見て覚えておけ。いつかは必ず役に立つ。兵学をする人はもちろん、政治家にも、これは大切なことだ」
教官のこの教えに従って、勝は、勉学の暇に必ず長崎の市中を歩いた。それもステッキの頭に磁石をつけて、方角を計りながら歩いた。だから、彼は、長崎の市中で米屋がどこの横町にあるか、豆腐屋はどこの角にあるか、全部知っていた。この経験を、彼は例の江戸開城の時にも生かした。
それまでに、彼は江戸中を歩き回っていた。日本橋、京橋などの目抜きの通りや、芝、下谷の貧乏町、あるいは本所深川の場末も、全部足で覚えていた。江戸開城の時に、彼が頼りにしたのは、武士ではなかった。町人達である。つまり、庶民である。それも、新門辰五郎や、清水次郎長などのやくざ、あるいは、吉原遊郭の経営者、芸者、料理屋のおかみ、踊りの師匠、消防を担当していた町火消などを動員し、江戸市中の鎮静にあたった。
いざという時に備えて、房総方面から数百隻の船を用意し、官軍が江戸に攻めこんだ時は、江戸市民をこれらの船で逃がす用意をしていた。市民を逃がした後、魚市場の連中に頼んで、江戸を焼き払うつもりでいた。焦土作戦を敢行して官軍を迎えようとしたのである。これだけ決意をして、官軍の代表西郷吉之助(隆盛)と談判したのだ。
彼が自分の補佐として重視していたのは江戸城の旗本や御家人ではなく、完全に江戸市民であった。それは、彼が終始暇を見つけて、江戸市中を歩き回り、町だけでなく、人間の実態を見ていたからである。役立つ人間と、そうでない人間とを、それまでに鋭く見抜き整理していたのである。
「トップは、下情に通じていなければならない。そのために、民間の実情をよく自分の目で確かめなければ駄目だ。徳川将軍の中でも、創業者の家康公は、静岡に隠居した後も、ただじっとしていたわけではない。村々に碁会所のようなものを設けさせて輪番に歩いた。だから、ある日はA村、ある日はB村、というように歩き回り、近くの人々を集めて碁をうった。そうすると、初めは遠慮していた村人も、だんだん無礼講になり、碁で家康公を負かして喜んだりするようになる。そういう交歓の場を通じて、家康公は、領国の実態を知ったのだ」
こうして家康はハード面だけでなく、領民のソフトの面を知ったのである。
家光というのは3代将軍だが、彼もこの祖父家康の気持ちをよく受け継いだ。江戸城内にいた時も、市中に通ずる特別の門を作らせ、その門から出入りをして、夜になると町に出かけていった。供はわずか2、3人だったという。中には、もちろん、
「もし、何かあったら大変なことになります」
と言ってとめる部下もいたが、家光はきかなかった。部下が心配した通り、町中で、暴漢に襲われることもあったが、家光は、逆に投げ飛ばした。実は、この暴漢は、家光の夜の市中歩き回りをとめようとして、待ち構えていた家臣だったが、腕力では、家光にかなわなかった。その後、徳川氏も次第に文弱の風に流れたが、八代将軍吉宗になって、また創業者達の気運を重んずる空気が高まった。吉宗も、鷹狩その他で、江戸の郊外を歩き、実態を把握した。
勝海舟は、長崎の教官から、「書を捨てよ、町を歩け」というふうに教わったが、本人自身が家康や家光や、吉宗の治績を語り残しているところを見ると、そういう予備知識が既にあって、教官の言葉がことさらに身にしみたということだろう。
更新:11月22日 00:05