2018年07月02日 公開
2018年07月06日 更新
伊庭八郎は女性人気の高い人物で、ネット掲示板への書き込みなども女性が多く見受けられ、「イバハチ」の愛称で親しまれています。隻腕の美剣士として知られ、そんなハンデを背負いながらも勇ましく戦う姿は、想像するだけでも感動的です。左腕を失ったのは、慶応2(1866)年、遊撃隊として箱根で戦っていたとき。それでも、まだ右手が動くと言って3人の敵を殺したうえ、その勢いで岩まで斬ったという伝説も残っています。
箱根の戦いを終え、榎本武揚らの待つ箱館に向かう途中、イバハチは横浜に潜伏しています。素性を隠して、尺振八(せきしんぱち)という先生の英語塾の塾生となっていますが、彼のことを伊庭八郎だとは知らずに接していた高梨哲四郎という塾生の証言によると、「温雅な風情で色が白く、眉び目もく秀麗」と、かなりのイケメンだったようです。自分のことをかわいがってくれたその人物が塾を去ったのち、じつは伊庭八郎だったと知り、高梨さんはとても驚いたといいます。
だれからも好かれる人気者だったようで、本山小太郎という親友との美談も伝えられています。イバハチが箱根で左腕にケガを負ったとき、小太郎は献身的に看病をしました。イバハチも小太郎には感謝していたようで、尺家にあった『二葉集』という和歌集に、このような歌を残しています。
「あめの日はいとゞこひしく思ひけり 我がよき友はいづこなるらめ」
この“友”がだれかは明かされていませんが、おそらく小太郎だと推測されます。
実際、イバハチは周囲からの恩を決して忘れない人で、尺夫妻にも深い感謝の念を抱いていました。あるとき、イバハチがいつも左腕を懐に隠していることを不審に思った塾生が、わざと両手を使わないとできない仕事を言いつけます。命じられたイバハチが人目を避けて作業をしていると、それを見た尺さんの妻・キクがすぐに交替してくれたそうです。常日ごろから左腕がないことを気づかってもらっていたのでしょう。横浜を去るときにもらった尺さんの写真をずっと懐に入れて、死ぬ間際まで感謝の言葉を漏らしていたといいます。
イバハチの死を看み取とった田村銀之助によれば、イバハチは木古内という激戦地で被弾、弾は胸部にとまって抜き取ることができず、「もう駄目だから、敵中に放棄してくれ」と頼まれたそうです。イバハチの胸部はほとんど腐食しはじめ、それでもただの一度も痛いと言いませんでした。戦況が不利になり、死を覚悟した榎本武揚に、「われわれもすぐあとから行くから貴公はひと足先に行ってくれ」と毒の入った薬椀をすすめられると、イバハチはそれが毒薬だと悟り、にっこりと微笑んできれいに飲み干すと、眠るがごとく絶命しました。
そんなイバハチが22歳のとき、半年ほど上洛した将軍の警護にあたっており、そのころの日記が『征西日記』として残っています。これが元祖『るるぶ』とでも言うべきグルメ&観光日記で、関西のお寺めぐりをし、朝昼晩と何を食べたかなどが仔細に記録されています。しかも、あのお店はおいしい、あそこは値段が高いといった評価まで!
イバハチは甘いものが大好きで、羊かんやおしるこ、カステラなどを好んだ“スイーツ男子”。目まぐるしく変化する時勢のことにはふれず、虫歯になって3日間稽古を休んだという微笑ましい記述も残されています。島原にも行っていますが、「ことのほか粗末」という感想で、どうもお気に召さなかったご様子。“花より団子”なイバハチでした。
戦いや友情にまつわるエピソードはどれもカッコよく、しかもスイーツ好きというかわいらしい一面もある。女の子に人気があるのも納得できますね。
伊庭八郎の弟の想太郎は、榎本武揚に元祖をたどる東京農学校(現・東京農業大学)の校長も務めた人物で、剣術家としても知られています。明治34(1901)年には、収賄などさまざまな汚職疑惑のあった東京市議会議長の星亨を暗殺し、獄中で病死しました。また、その息子でイバハチの甥にあたる孝は、大正時代に近代劇協会などを率いてオペラを上演していた俳優兼演出家。のちに音楽評論家に転身し、さまざまな執筆活動やジャズの訳詞などで才能を発揮しました。
※参考文献
『伊庭八郎のすべて』新人物往来社編、1998年
※本記事は、小日向えり著『イケメン幕末史』より、その一部を抜粋、編集したものです。
更新:11月24日 00:05