2018年06月25日 公開
2018年07月06日 更新
村田新八は西郷隆盛と同じ摩の下加治屋町に生まれ、「西郷の懐刀」として終生にわたって行動をともにしました。西郷さんより年齢は9つも下ですが、幼少時にはしばしば取っ組み合いのケンカをしたそうです。「ケンカするほど仲がいい」といいますが、2人はそうやって絆を深めていき、新八が10歳のとき、議論をして言い負かされたことを機に、西郷さんに兄事するようになります。ただ、師弟関係というよりは、友情に近い仲だったようです。
文久2(1862)年、島津久光の命に背いた罪で西郷さんが2度目の島流し(沖永良部島)に処された際、新八も同様に喜界島への遠島処分を下されます。2年後、西郷さんは赦免されて一代小番・小納戸頭取に召されますが、新八には赦免の報せが届きません。けれど、西郷さんはかまわず船を喜界島に立ち寄らせ、無断で新八を船に乗せます。まだ罪人である新八を薩摩へ連れ帰ることによって、3度目の刑罰を受けるかもしれないにもかかわらず、です。この情け深さに感動を覚えた新八は、西郷さんとの関係をますます深めていきます。
新八は身長180センチの魁傑で、目に強い光を宿しているイメージがあります。ふだんは無口な性格でしたが、意見を求められたときには、しばらく考えてから卓見を述べる切れ者で、西郷隆盛、大久保利通の両人からその能力を高く評価されていました。
薩摩藩士にしてはめずらしく美術や音楽を好み、後年、岩倉使節団の一員として欧米を視察した際は、パリのオペラ座に足繁く通い、アメリカ滞在時は、アコーディオンを自由自在に演奏。その姿は異彩を放っていたそうです。
西郷さんは新八を評して、「智仁勇の三徳を兼備した人である。諸君よろしくこの人を模範とせよ」と語り、軍議などがあれば、そのつど「新八はどう思う?」と意見を求めるほど、彼の思慮深さや判断力を重宝がっていました。鋭い洞察力をもつ勝海舟でさえ、「彼は大久保に次ぐ傑物なり」と評し、儒学者の春日潜せん庵あんは「あの村田という摩ものは西郷に匹敵する傑物かもしれんな」と語っています。
欧米視察から帰国した新八は、西郷さんが征韓論で敗れて下野したと聞くと、ただちに彼を追って鹿児島へと戻ります。欧米諸国を見て世界における日本の非力さを痛感し、大久保さんとともにこれからの日本の行く末を思案していく矢先の出来事でしたが、西郷さんとの並々ならぬ情じよう誼ぎを重んじて渦中に身を投じたのです。その心境を、鹿児島から東京にいる従弟・高橋新吉に宛てた手紙にこう綴っています。
「自分は、西郷と離るべからざる関係あるをもって、東京に上るは能あたわず」
そして、自分を慕って行動をともにしようとした新吉を制し、東京に残るよう指示します。新八はいずれ戦となっても戦況が不利であることを端はなから悟り、新吉を巻き添えにしたくはなかったのでしょう。大久保さんは、桐野利秋や篠原国くに幹もとらが西郷さんに随っても動揺しませんでしたが、新八が明治政府の職を辞して鹿児島へ戻ったと聞くと、愕がく然ぜんとしたそうです。それほど頼りにしていたのでしょう。
新八は二番大隊長として西南戦争を戦い、奮戦むなしく、城山にて西郷さんとともに最期を迎えます。新八はシルクハットにフロックコートの出で立ちで、戦の合間にもアコーディオンを弾いていました。最期の戦場となった城山でのその姿にはどこか哀感が漂い、いよいよ決戦が迫るとアコーディオンを焼き払ったそうです。城山が陥落し、盟友・西郷の死を見届けてから戦死した新八。いまでも彼は、桜島を望む南洲墓地で、西郷さんの傍らに眠りつづけています。
新八が愛用のアコーディオンを買ったのは、岩倉使節団の一員として渡米したときのことでした。岩倉使節団とは、明治4(1871)年から約2年間、各国との不平等条約改正と西洋文化の視察を目的に、欧米諸国を訪問した一団のこと。メンバーには木戸孝允や大久保利通、伊藤博文ら、政府の主要人物が名を連ねていたことからも、新八の存在感がうかがえます。帰国後、シルクハットやフロックコートを着用したという、ちょっぴり西洋かぶれな新八でした(笑)。
※本記事は、小日向えり著『イケメン幕末史』より、その一部を抜粋、編集したものです。
更新:11月22日 00:05