2018年05月12日 公開
2019年04月24日 更新
京王線分倍河原駅前に建つ新田義貞像
元弘3年5月12日(1333年6月24日)、久米川の合戦で新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破りました。
元弘3年5月8日、後醍醐天皇より倒幕の綸旨を受けた新田義貞は、上野国生品神社においておよそ1500騎で挙兵、周辺豪族を吸収して軍勢の数を増やしながら南下します。利根川を越えて武蔵国に入ったところで、足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)も合流し、さらに軍勢は数を増やしました(一説に20万。実際は数万か)。
鎌倉街道沿いに南下する新田軍は入間川を渡り、5月11日、小手指ヶ原において迎撃に現われた桜田貞国率いる鎌倉幕府軍と衝突、激戦の末にこれを破ります。桜田はやや南下し、久米川(現、柳瀬川)の線で新田軍を食い止めようとして起きるのが、翌5月12日の久米川の合戦でした。
新田義貞は八国山の高地を押さえて戦いを有利に進め、再び幕府軍を破ります。 敗れた桜田は多摩川の線まで後退し、分倍河原で北条高時の弟・泰家率いる10万の援軍を得て態勢を整え、5月15日、三度新田軍と干戈を交えて、一旦は新田軍を撃退しました。しかし翌日未明の新田軍の攻撃により大敗を喫し、新田軍は鎌倉攻めへと向かうことになります。
久米川の古戦場は府中街道から少し西に入ったところにあります。しかし現在は小さな公園に久米川古戦場跡の石碑があるだけです。八国山の一角には、将軍塚(新田義貞が指揮を執ったという伝承がある。実際は古墳であるとも)の碑も建っています。
「元弘三年の板碑」は、かつては八国山にあり、その後、徳蔵寺境内に移されました。この板碑は、新田軍で討死した飽間斉藤氏の3人を供養するものですが、上部が欠けてしまっています。ただ、この板碑の存在のおかげで、『太平記』の久米川の合戦の記述が裏付けられたのです。
更新:11月23日 00:05