2017年03月01日 公開
2022年06月15日 更新
文政7年3月1日(1824年3月31日)、千葉重太郎が生まれました。北辰一刀流・桶町千葉道場の主を務め、坂本龍馬とも親しかったことで知られます。
文政7年(1824)、千葉定吉の長男に生まれた重太郎は、幼少より父から北辰一刀流を教えられます。父の定吉は北辰一刀流を興した千葉周作の実弟で、兄から北辰一刀流の奥義を伝えられていました。周作の玄武館道場が「大千葉」と呼ばれたのに対し、定吉の桶町千葉道場は「小千葉」と呼ばれていたといわれます。
嘉永6年(1853)、定吉が鳥取藩に仕え、剣術師範になったことにより、道場は30歳の重太郎が切り盛りすることになりました。その頃、江戸に出てきた坂本龍馬が入門しており、龍馬に直接手ほどきしたのは、重太郎であった可能性が高いようです。ちなみに後に龍馬の婚約者となる重太郎の妹・さな子(佐那)は、当時16歳です。
万延元年(1860)、重太郎も鳥取藩に仕官します。文久2年(1862)には藩の周旋方を務め、当時一般的であった攘夷思想を抱き、大坂に出張した際、脱藩した龍馬とともに兵庫に滞在していた勝海舟を訪問しました。龍馬は3週間前にすでに江戸で勝に面会してその人物を認めており、重太郎に海軍の重要性を知らせようとしたのかもしれません。重太郎も勝に心服したらしく、後に重太郎の門弟で鳥取藩士の黒木小太郎が、勝の弟子となっています。
元治元年(1864)には、平野国臣らとともに但馬生野で挙兵して敗れた北垣晋太郎、進藤俊三郎(原六郎)を道場に匿い(二人とも後に鳥取藩附属に)、幕府の追っ手から逃したこともありました。二人は重太郎の恩義を忘れず、明治後、さまざまなかたちで千葉家を支援したといわれます。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争では、北垣、原らとともに農兵隊・山国隊を率いて従軍。上野戦争では山国隊を支援しています。
戦後、定吉から千葉の家督を相続し、明治5年(1872)には北海道開拓使に任官。その後、北海道の七重村に赴任しました(明治8年には東京勤務を命じられています)。明治14年(1881)に北垣が京都府知事に就任すると、重太郎も京都へ移住。翌年には警察本署に出仕しますが、明治18年(1885)5月7日、京都で没しました。享年62。
龍馬を描いた小説などでは、龍馬の千葉道場時代にのみ登場する重太郎ですが、鳥取藩士として、また明治政府の官吏として生きた人生がありました。
更新:11月21日 00:05