2018年04月23日 公開
2022年07月04日 更新
文久2年4月23日(1862年5月21日)、伏見の船宿・寺田屋で、薩摩藩士同士が闘う寺田屋事件(寺田屋騒動)が起こり、有馬新七らが討たれました。島津久光による尊王攘夷派鎮圧事件です。今回は有馬新七について少し取り上げてみましょう。
有馬新七は文政8年(1825)、薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛正直の子に生まれました。その後、新七が3歳の時に父親が有馬家の養子となったため、新七も鹿児島城下の加治屋町に移ることになります。天保14年(1843)、19歳の新七は江戸に出て山口菅山の門を叩き、崎門学派を学びました。崎門学派は山崎闇斎が創始した朱子学の一派で、朱子学の説く「君臣の分」は重んじながらも、中国を最上とする中華思想には従わず、万世一系の天皇を戴く日本の特質に応じた解釈を行なうものです。
一方、新七は真影流(直心影流)の剣にも秀でていました。薩摩というと示現流、薬丸自顕流のイメージがありますが、直心影流(薩摩では真影流と呼んだ)も盛んに学ばれたようです。いったん帰国後、安政4年(1857)、33歳の新七は薩摩藩江戸藩邸の学問所教授(糾合方)に就任。文武に励んだ研鑽の賜物であったのでしょうが、その名は他藩にも知られるようになり、尊王攘夷派の志士たちとも交わるようになりました。
安政5年(1858)には上洛し、水戸、長州の志士らと連繋して、大老井伊直弼の幕政を改めさせることを策しますが、うまくいきません。翌年に安政の大獄が始まると、新七は同志を募って脱藩挙兵し、井伊大老を暗殺して京都へ出兵することを計画しますが、薩摩藩国父(藩主の父親)・島津久光より軽挙妄動を慎むよう命じられ、これも頓挫します。このため安政7年(1860)の桜田門外の変には、水戸の志士たちに協力することができず、有村治左衛門一人が参加するに留まりました。なお新七の同志たちは後に誠忠組(精忠組)と呼ばれます。
しかし島津久光は文久2年(1862)、大久保一蔵(利通)ら誠忠組の中心人物を自らの側近に加えつつ、亡兄・斉彬が構想していた率兵上京と幕政改革のプランを実行に移しました。島津久光の思惑は、あくまで薩摩の軍事力を背景にして京都の朝廷を取り込み、その後押しを得て、江戸に乗り込んで幕府を改革することにあります。
しかし新七ら誠忠組の中でも過激な者たちは、薩摩の京都出兵を利用して一挙に倒幕へと持ち込むべく、他藩や在野の志士たちと連繋をとって、伏見の船宿・寺田屋に集結しました。寺田屋が薩摩藩の定宿であったからです。
新七らの計画では、幕府と親しい九条関白と京都所司代を襲って、倒幕の先駆けを成し、1000の薩摩藩兵を討幕軍に変えようというもので、寺田屋には久留米の真木和泉、中山家に仕えた田中河内介らも参集。さらに長州の久坂玄瑞らとも呼応します。
この動きを察知した島津久光は、新七らの説得に、あえて新七の同志で腕の立つ者たちを寺田屋に向かわせました。新七らを藩邸に呼んで説諭するつもりでしたが、それに従わない場合は、斬り捨てることも想定しています。
鎮撫役は奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら9人。寺田屋の玄関に現われた彼らを見た新七はすべてを察しますが、冷静に現在の状況を話し、すでに後戻りではないことを告げます。奈良原らは君命に従うことを求めますが、新七は君命よりも朝廷のお召しが優先するとしました。
やにわに鎮撫役の道島五郎兵衛が「上意」と叫ぶや、近くにいた田中謙助を斬ると、同じく山口金之進が、新七の傍らに座っていた柴山愛次郎を斬殺。これに新七は激昂し、凄まじい斬り合いとなります。
やがて新七の刀が折れると、新七は道島五郎兵衛を両手で壁に押しつけ、「オイ(俺)ごと刺せ」と叫び、同志が新七ごと道島の体を刀で串刺しにしました。新七、享年38。
結局、鎮撫側は1人が死亡、新七らは6人が死亡し、重傷を負った2人も後に切腹となります。維新前の犠牲といってしまえばそれまでかもしれませんが、時代を変えるのは、やむにやまれぬ行動の積み重ねかもしれないとも感じます。
更新:11月21日 00:05