2018年04月17日 公開
2019年03月27日 更新
『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」
嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、葛飾北斎が亡くなりました。江戸時代の浮世絵師で、『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などで世界的に知られ、ゴッホなど海外の芸術家にも影響を与えたといわれます。
宝暦10年(1760)、江戸本所割下水の農民の子に生まれた北斎の本名は川村時太郎。幼い頃より手先が器用で画道を志し、安永7年(1778)、19歳で浮世絵師・勝川春章に弟子入りします。しかし浮世絵に飽き足らず、師匠に内緒で狩野派や司馬江漢の画法なども学び、一説にそれが発覚して春章から破門されました。それからは行商をしたり、うちわ絵の内職をして糊口をしのぎつつ、絵を描き続けます。そのジャンルは人物画、風景画、化物画、春画、漫画などの多岐にわたる浮世絵の他に、肉筆画、挿絵画も描きました。
文化2年(1805)、46歳の時に葛飾北斎の画号を用いますが、他にも「春朗」「宗理」「戴斗」「為一」「卍」などもよく使い、さらに別の号も使っていて、その数30種類に及びました。一説に、新ジャンルに挑戦する度に新人を装って新しい画号にしたともいいます。
数々の奇行でも知られ、まず生涯に転居すること93回。1日に3回転居したことも。その理由は部屋が汚れるたびに移ったためらしく、日常は絵を描くことに集中し、食事を作ることも掃除もせず、暑い時期以外はこたつに入りっぱなしで、眠くなるとそのまま横になっていたとか。
また人を驚かせるのが好きで、120畳もある巨大な布に達磨を描いてみせたり、逆に米粒一つに雀二羽を描いたりもしました。将軍の御前に召された時は、横につないだ紙に刷毛で藍色をひいた上で、足の裏に朱をつけた鶏を紙の上を走らせ、「竜田川でございます」と言って、一同を唖然とさせています。
そんな北斎の頂点とされるのが、富士山を主題に描かれた『富嶽三十六景』です。文政6年(1823)、64歳頃から制作を始め、天保4年(1833)、74歳頃に完結。上から覆いかぶさってくる波、制作中の桶の向こうに見える富士など、印象的な構図、色合いが見事で、江戸っ子は「北斎といえば富士、富士といえば北斎」と絶賛しました。
ちなみに74歳の時、「73歳になってようやく虫や生き物、草木のつくりをいくらか知ることができた。だから86歳になればますます腕は上がり、90歳になれば一層奥義を極め、100歳になれば神妙の域に達し、110歳ともなれば、あらゆるものを生きているように描けるだろう」と記しており、絵を描く意欲がまったく失われていないことが窺えます。
嘉永2年、90歳で没。辞世は「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」。
更新:11月21日 00:05