天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐郷士・中岡慎太郎が生まれました。坂本龍馬とともに薩長同盟を推進し、土佐陸援隊隊長としても知られます。
坂本龍馬と同時に暗殺されたこともあり、どちらかというと龍馬の陰に隠れがちな印象ですが、龍馬は家族への手紙の中で中岡を「此人は私同よふの人」と記して深く信頼しており、また薩長同盟に向けての尽力は、むしろ中岡の方が勝っていたようです。
土佐国安芸郡北川郷柏木村の庄屋の家に生まれた中岡は、安政元年(1854)の17歳の時に高地城下の間崎哲馬のもとで学問を学び、翌年には高知城下で剣術道場を開いていた武市半平太に入門します。
やがて尊王攘夷思想を抱き、文久元年(1861)9月、24歳で武市が主宰する土佐勤王党に加盟しました。すでに龍馬も加盟しており、おそらく両者はこの頃に顔を合わせていたと思われます。
文久2年(1862)、龍馬が脱藩して江戸で勝海舟の弟子になっていた頃、中岡は長州の久坂玄瑞らと意気投合して、一緒に松代に出かけ、佐久間象山と議論を交わしています。翌文久3年には藩より徒目付兼他藩応接密事掛を命じられますが、やがて藩内で勤王党への大弾圧が始まると、脱藩。8月18日の政変で京都を追われた公卿・三条実美らと長州藩内の三田尻で会見し、久留米の真木和泉や肥後の宮部鼎蔵らとともに、長州における脱藩浪士たちの中心的存在となりました。
そして翌元治元年(1864)の禁門の変や、下関での四国連合艦隊に対して浪士を率いて戦い、負傷します。ここにおいて中岡は、長州一藩での攘夷・倒幕が不可能であることを悟り、雄藩が連合することを模索し始めるのです。
折しも同年に幕府が発令した長州征伐(第一次)で、薩摩藩が寛大な措置を主張したことに感じ入った中岡は、同年末に西郷吉之助と下関で会談し、薩長同盟への一歩を踏み出します。翌慶応元年(1865)には、中岡が仲介して下関で薩摩藩士と長州藩士を引き合わせるなど、少しずつ前進し始めました。
その頃、神戸海軍操練所の閉鎖により薩摩藩の庇護を受け、長崎で亀山社中を興していた龍馬は、中岡の薩長同盟策を知って、これに全面協力することを約束します。そして薩摩藩名義で外国から武器を購入して長州に送り、長州藩内の反薩摩の空気をやわらげた上で、慶応2年(1866)1月、京都で龍馬立会いのもと、長州の桂小五郎、薩摩の西郷らとの間で薩長同盟が締結されました。その席に中岡がいなかったため、薩長同盟はすべて龍馬の功績と思われがちですが、実は中岡の地道な根回しの賜物でした。
慶応3年(1867)に入ると、龍馬は土佐藩と和解し、参政・後藤象二郎に「船中八策」を示して、大政奉還の道を探り始めますが、中岡はあくまで武力倒幕論でした。長州藩内にいて、俗論党を倒して藩論を転換した高杉晋作の決起を目撃し、また第二次長州征伐で、浪士隊の忠勇隊を自ら率いて幕府軍を撃退した中岡からすれば、時代を変えるのは武力倒幕以外にあり得なかったのです。
土佐藩では時流に遅れまいと、中岡に浪士らから成る陸援隊を任せる一方、龍馬の大政奉還論を将軍に建白。二股でした。結果、将軍徳川慶喜は大政奉還を決断、同じ日に「討幕の密勅」が下ったことは、大政奉還派と武力倒幕派がぎりぎりまで争っていた証です。
その1ヵ月後、中岡は龍馬とともに京都で暗殺されます。享年30。下手人は誰かとともに、その時、二人が何を話し合っていたのかも興味深いところです。
更新:12月10日 00:05