天保10年4月11日(1839年5月23日)、永倉新八が生まれました。新選組二番組組長、撃剣師範として知られ、剣の腕前は新選組で三本指に入るともいわれます。
松前藩士・長倉勘次の子として、江戸下谷三味線堀で生まれた新八は、8歳の時に神道無念流・岡田十松道場に入門。18歳で本目録を得ました。ところがその年に元服すると、新八は家を飛び出し(脱藩ですが、藩は剣術修行の扱いだったとも。新八は苗字の長倉を永倉と記すようになります)、同じ神道無念流の百合元道場でさらに腕を磨き、22歳頃に免許皆伝を得たといいます。
竹を割ったような性格で、堅苦しい宮仕えを好まず、他流派でも師範代を頼まれれば快く引き受ける、根っからの剣術好きでした。そんな新八は牛込柳町の天然理心流道場「試衛館」の主・近藤勇と出会い、意気投合します。門弟には若年ながら天才肌の沖田総司をはじめ、土方歳三、山南敬助、井上源三郎、また他流派ながら原田左之助、藤堂平助らも出入りして猛稽古に明け暮れており、道場主の近藤は新八よりも5歳上ですが、至って気さくで、新八は居心地よく過ごしていたようです。
文久3年(1863)、幕府の浪士隊募集に応じ、近藤ら試衛館の主要メンバーが上洛する折も、新八は行動を共にしました。日頃磨いた剣の腕を、動乱の都で活かしてみたいという思いであったことでしょう。
やがて近藤らが中心となって京都で新選組を結成し、都の治安維持にあたるようになります。局長を近藤、副長を土方、山南が務め、幹部である副長助勤に沖田、藤堂、井上、原田、斎藤一らと並んで新八も名を連ねました。また剣の達人揃いの新選組の中で、特に撃剣師範役に抜擢され、隊士に稽古をつけていたことからも、新八の実力が窺えます。
近藤からも深く信頼され、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件の際は、近藤から選ばれた新八、沖田、藤堂らが、近藤とともに真っ先に屋内に斬り込みました。その後も禁門の変、油小路の戦いなどの主要な戦いには必ず参戦し、組織改編で新選組が十番組までの小隊制となると、新八は二番組組長となります。
一方で、新選組の功績が認められて近藤が天狗になると、新八は遠慮なく怒り、新選組を預かる京都守護職の会津藩にも近藤の態度を訴えています。新八にとって新選組はあくまで同志の集まりであり、そもそも試衛館道場時代から、新八は近藤の門弟ではありません。この辺にも、窮屈を嫌う性格が表われているようです。
その後、大政奉還で幕府が瓦解。近藤は敵方に狙撃されて負傷し、鳥羽・伏見の戦いは副長の土方が新選組の指揮を執りました。この時も最前線のまとめ役は新八が務め、土方からも信頼されていたことがわかります。
やがて敗戦の末、江戸に戻った新選組は甲府城接収に向かいますが、ここでも新政府軍に敗れ、再び江戸に戻ります。そして今後について相談の際、近藤が隊士を家臣扱いしたことに新八は腹を立て、新選組を離れました。その後、独自に北関東を転戦しますが、会津藩の降伏を知ると江戸に戻り、松前藩に帰藩します。
維新後は北海道小樽に移り、樺戸刑務所で看守に剣術を教えました。晩年、映画を好み、孫を連れてよく上映会に出かけましたが、ある時、土地のやくざに絡まれ小突かれると、新八は低く「むっ」と気合を発し、じろりと睨むと、やくざは真っ青になり震え上がったといいます。後で孫に「あんなのは屁のようなものだ」と笑ったとか。
なお新選組の顕彰に務め、近藤が処刑された板橋刑場跡に、近藤・土方の墓を建立しています。喧嘩別れしたとはいえ、やはり新選組の永倉新八でした。大正4年(1915)没。享年77。
更新:12月10日 00:05