2017年05月11日 公開
2019年04月24日 更新
写真:国立国会図書館
明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館戦争において、土方歳三が戦死しました。蝦夷共和国の陸軍奉行並であり、新選組の「鬼副長」としても知られます。土方歳三については、先月発売の「歴史街道」2017年5月号で総力特集を組んでいますが、ここでは、土方の最期について少しご紹介します。
明治2年4月9日、新政府軍が蝦夷地の乙部に上陸を開始。海岸線を進む松前口と、内陸部を進む厚沢部口とに攻撃隊を二分し、進撃します。 そして厚沢部口の二股で2週間余り、壮絶な戦いを繰り広げたのが、歳三でした。
4月13日、二股戦が勃発します。二股口には峻険な山間部に「江差山道」と呼ばれる一本道が通るのみで、防衛には有利な地勢でした。台場山と呼ばれるその山上に多数の胸壁を築き、歳三率いる二股防衛軍は新政府軍の襲来を待ったのです。 13日夕刻、薩長を主力とする新政府軍400が襲来。守る歳三の軍は衝鋒隊2小隊、伝習歩兵小隊のおよそ130でした。両軍は夜を徹して16時間にわたる壮烈な銃撃戦を続け、ついに歳三らは敵を撃退。発砲した弾丸は3万5000発にも及んだといいます。
「僅かに130人なるも、しかもよく禦ぎてこれを退くるは、独り地の険なるのみあらず、総督(歳三)の法令厳整にして、よく士卒の心を得たるを以てなり」と『函館戦記』にはあります。
両軍は対峙し、しばらく小競り合いを続けました。この間、歳三はいったん五稜郭に戻り、新選組の市村鉄之助に刀、写真、書付などを持たせて、故郷の武州日野に向かわせます。まだ若い市村を戦死させないためと、自分の形見を実家に届けるためでした。
その後、歳三は再び二股口に戻り、兵の増強を得て(歳三の指揮下およそ400か)、新政府軍の再襲来を待ちます。1000の敵が攻勢をかけてきたのは、4月23日夕刻でした。再び激戦となり、歳三の軍は過熱した銃身を水で冷やしながら銃撃を続けたといいます。 激闘の中、新政府軍の指揮官・駒井政五郎が戦死。そして25日、ついに新政府軍は攻略を諦めて撤退しました。『函館戦記』はこの二股口の戦いが、蝦夷地における陸軍の最も烈しい戦いだったと記録しています。
かくして二股口は敵から「難攻不落」と呼ばれ、その指揮官である歳三は、常勝将軍として知れわたりました。 ところが他の方面では旧幕府軍が新政府軍に押されて退却、二股口の歳三らが敵中に孤立することを恐れた蝦夷政府総裁・榎本武揚は29日、歳三に撤退命令を出しました。 歳三はやむなく二股の陣を払い、5月1日に五稜郭に戻ります。以後、5月3日、4日に新選組や額兵隊などが七重浜の新政府軍に夜襲をかけますが、撃退には至らず、7日の箱館湾での海戦では、幕府軍艦の回天が損傷し、浮き砲台としてしか使用できなくなりました。
そして5月11日。新政府軍は箱館市中の総攻撃を実施します。歳三は額兵隊などを率いて一本木関門に向かいます。この時、箱館湾で孤軍奮闘していた旧幕府軍艦の蟠龍が敵の朝陽を撃沈、その爆発の様子を見た歳三は、この機に市中へ反撃しようとしました。 そして浮き砲台と化した回天から味方が脱出しているところを、手勢をもって援護し、味方を五稜郭へと逃します。それから一本木関門に至り、ここで敵を食い止めようとしたところで銃弾を受け、戦死しました。享年35。
司馬遼太郎氏の小説『燃えよ険』では、ただ一騎、敵陣に向かう歳三が、誰何する敵兵に凄みのある笑みを浮かべ、「新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」と最後の台詞を告げます。フィクションとわかってはいますが、歳三の最期にふさわしい、名台詞ではないでしょうか。
更新:11月24日 00:05