2018年04月07日 公開
2019年03月27日 更新
慶長16年4月7日(1611年5月29日)、浅野長政が没しました。羽柴秀吉の姻戚で、豊臣政権の五奉行の一人として知られます。
以前、「真壁のひな祭り」で有名な茨城県桜川市を訪れた際、市内のお寺に浅野長政の墓があると聞いて、意外な思いがしました。浅野家は関ケ原合戦でも東軍の主力の一つでしたし、長政の墓も広島あたりにあるものと漠然と思っていたからです。関ケ原合戦後、長政の長男・幸長は紀伊和歌山37万石に、さらに幸長没後、家督を継いだ弟の長晟(ながあきら)は安芸広島42万石に加増転封されました。一方、父親の長政は常陸真壁5万石を隠居料として与えられ、この地で没していたのです。
天文16年(1547)、尾張国の安井家に生まれた長政は、織田信長に仕える叔父・浅野長勝の娘ややの婿養子となり、浅野弥兵衛尉長吉と名乗りました。また長勝の養女となっていたねねと結婚したのが木下藤吉郎(羽柴秀吉)ですので、長政は秀吉と姻戚になります。
長政は信長の命令で、秀吉の与力となりました。天正元年(1573)、27歳の時、小谷城攻めの功績により近江で120石を与えられ、その後も秀吉を補佐し、信長の死後は秀吉に仕えます。賤ヶ岳合戦の戦功で坂本城(のち大津城)2万石、天正12年(1584)には京都奉行を務め、豊臣政権下の五奉行の筆頭となりました。
行政手腕にも秀でていた長政は、太閤検地も任されています。天正15年(1587)の九州征伐でも活躍し、41歳で若狭小浜8万石の国持ち大名となりました。さらに天正18年(1590)の奥州仕置きでは、九戸政実の乱に対する豊臣軍の軍監を務め、これを鎮圧しています。文禄2年(1593)の朝鮮出兵でも功があり、甲斐府中21万5000石を与えられ、東国大名の取次役に任じられました。
その一方、朝鮮出兵の最中の話として、肥前名護屋城の秀吉が徳川家康や前田利家の前で、自分が渡海して督戦すると言い出した時、長政が「徳川殿、お気になさるな。今の太閤殿下は昔と違って、狐が憑いておられる。それでなくば、かような馬鹿な戦をするものか」と言い放って秀吉を激怒させ、家康や利家のとりなしで何とかその場をおさめますが、秀吉もそれ以来、渡海を口にしなくなったといわれます。長年、秀吉を補佐した長政だからこそ、ずけずけとものが言えたのかもしれません。
しかし2年後、秀次事件に巻き込まれて、一時期、蟄居することになりました。秀吉が死ぬと、慶長4年(1599)には前田利長とともに、徳川家康暗殺計画の嫌疑がかけられ、長政は家督を幸長に譲って、武蔵国府中に謹慎します。しかし翌年の関ケ原の合戦では東軍に与し、息子幸長は関ケ原で奮戦、長政は徳川秀忠の軍勢に加わって、中仙道を進軍しました。そして長政は息子たちとは別に、家康から真壁に隠居料を与えられるのです。
長政と家康は長年の「碁敵」でもあり、個人的には親しかったといわれます。隠居料は、天下取りの際に暗殺計画の嫌疑という濡れ衣を着せたにもかかわらず、味方についてくれた長政への家康のせめてもの謝礼だったのでしょうか。
更新:12月10日 00:05