2018年03月03日 公開
2019年02月27日 更新
慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、前田利家が没しました。「槍の又左」の異名を持ち、豊臣政権の五大老としても知られます。
尾張国の荒子城主・前田利春の四男に生まれた利家は相当な傾奇者で、若くして織田信長に仕え、親衛隊の「赤母衣衆」として得意の槍をもって活躍します。そのため「槍一本で大名になった」などともいわれますが、武勇だけでなく、軍略や人心掌握術にも優れていました。正室はまつ。羽柴秀吉・おね夫婦とは家族ぐるみで仲が良く、後に利家の娘・豪は秀吉夫婦の養女となっています。
北陸方面軍司令官の柴田勝家の与力として武功を重ねると、利家は能登一国を与えられ、七尾城主となりました。しかし賤ヶ岳の合戦では上役の勝家と親しい秀吉との板ばさみになり、自主的に戦線離脱し、秀吉の信用を得ることになります。その功で加賀二郡を与えられると、本拠を能登から尾山城(金沢城)に移しました。
生涯で38度の合戦に出たといわれる歴戦の利家ですが、同時に「律義者」であることは誰もが認めており、多くの武将に慕われています。ある時、聚楽第の一室で数名の武将が、秀吉亡き後、誰が天下を取るだろうかと話していました。一人が「内府(徳川家康)では」と言うと、蒲生氏郷が「あの吝嗇な内府には無理だ。天下を取るのは、ほれ、あの男の親父どのよ」と指した先にいたのは、利家の息子・利長でした。すると一同、なるほどと納得したといいます。
そんな利家を、秀吉は徳川家康と並ぶ五大老の上席に据え、さらに幼い息子・秀頼の後見を託して世を去りました。 秀吉が死ぬと、掌を返して法度破りを始めたのが家康です。これに怒った利家は、息子の利長に「太閤があれほど秀頼様を頼むと言っていたのに、家康は早くも約定を破っている。わしはこれより家康との直談判に参る。話が決裂すれば、わしはこの刀で家康めを斬る。もし、わしが家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言い残し、伏見城に向かいました。律儀者というより、やはり戦場往来の武人の気迫を感じさせます。
ほどなく利家が病で死の床につくと、妻のまつが手縫いの経帷子を見せて、「あなたはこれまで戦場で多くの人を殺めてこられた。その報いが恐ろしいので、この経帷子を召してください」と言うと、利家は「なるほどわしはこれまで幾多の合戦で多くの者を殺めはしたが、人を理由もなく殺したり、苦しめたことはただの一度もない。地獄に落ちるいわれはないのだ。それでも地獄に落ちるというのなら、わしより先に逝った者たちを集め、閻魔や鬼どもを相手にもうひと戦さしてくれるわ。その帷子は後からお前が纏って参れ」と、受けとらなかったといいます。
慶長4年閏3月3日、前田利家はその後大坂の自邸で亡くなります。享年62。利家の死後、家康により加賀征伐が画策されますが、息子の利長は母の芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、前田攻めはとりやめになっています。利家がもう少し長生きしていたら、家康も好き勝手はできず、その後の展開も随分変わっていたのかもしれません。
更新:12月10日 00:05