2017年10月12日 公開
2018年09月25日 更新
万治元年10月12日(1658年11月7日)、前田利常が没しました。前田利家の四男で加賀藩第3代藩主。鼻毛を伸ばして愚鈍を装ったことで知られます。
文禄2年(1594)、利常は前田利家の四男に生まれました。幼名は猿千代、犬千代。幼少の頃は利家の長女・幸が嫁いだ、越中守山城代の前田長種のもとで養育されます。実父の利家と初めて対面したのは慶長3年(1598)の6歳の時。利家が他界する前年のことですが、利家は利常を気に入り、大小の刀を与えたといわれます。利家は利常に何を見たのでしょう。
利家没後、前田家は利常の兄・利長が継ぎますが、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の前夜、8歳の利常は西軍についた小松城の丹羽長重のもとに人質として送られました。この時、長重が利常に梨の皮をむいてやって与えたという話が伝わります。
慶長10年(1605)に兄の利長が隠居すると、利長に子がなかったため、継嗣となっていた利常が3代藩主となりました。利常はすでに将軍徳川秀忠の娘・珠姫を正室に迎えています。慶長19年(1614)と20年の大坂の陣にも参戦し、特に大坂冬の陣では、家臣らが利常の許しを得ずに真田幸村(信繁)の籠もる真田丸に攻め掛かり、多大な損害を出したことに怒っています。また前田隊がとった敵の首を家康本陣に送る際、拾い首などが混じらぬよう数が減っても厳選するように命じました。大坂の陣後は、討死した家臣を弔うために加賀に報恩寺を建て、遺族らとともに涙ながらに冥福を祈り、居合わせた者たちは、この殿のためには命もいらぬと感激したといいます。
そんな利常ですが、江戸城内ではさまざまな奇行で逸話を残しました。まず有名なのは、鼻毛を伸ばしたこと。家臣の本多安房守が気にして、鏡を近習に渡しますが効果なく、横山左衛門佐は毛抜きを献上します。すると利常は老臣以下を集め、「鼻毛の伸びた者をうつけ者と呼ぶことぐらい、わしも心得ている。しかし加賀百万石の大大名たるわしが、もし利口面を鼻先に表わせば、大いに警戒されるであろう。うつけぶりを示してこそ、三カ国(加賀、能登、越中)は安泰で、皆安心して暮らせるのだ」と語りました。
また、江戸城内に立小便禁止の場所があり、違反した者には黄金一枚の罰金を科すという立て札が立てられていました。すると利常は札を見ながら立小便をし、それから金一枚を懐から取り出して、「大名たる者、黄金一枚を惜しんでこらえがたい小便をこらえるものか」とうそぶいたとか。
あるいはある時、体調不良で江戸城出仕を断り、後日、登城すると、老中(後に大老)の酒井忠勝が「先日はご出仕されませんでしたが、本日は気が向かれましたかな」と嫌味交じりに問いかけます。すると利常は、「そう思われるとは。拙者のような年寄りは疝気(せんき、下腹部から睾丸にかけて痛みのある病気)持ちのため、先日は痛くて歩くこともかないませなんだ。まずはこれをご覧くだされ」と袴をたくし上げて、満座の中で陰嚢を出して見せました。驚いた周囲の人々が「またまた肥前殿(利常)のおどけが出ますことよ」と言うと、「いやいやおどけではありませぬ。これを出して見せぬことには、拙者の申し分が立ちませぬ」と語ったとか。 なんとも人を食った行動ですが、そこには利家譲りの「傾奇者」の血統もあったのかもしれません。
そして後年、息子の光高が幕府へのご機嫌とりで金沢城内に東照宮を建立すると、利常は許可を出した酒井忠勝にはねんごろに礼を言いますが、息子の光高には「若気の至りとはいえ、いらざることをする。もし天下が改まり、徳川の威勢が衰えたら、この社をどこへ遷座するのか」と叱りました。利常の本心がどこにあったのかがよくわかります。前田利家の息子、利長と利常。生まれる順番が逆であったら、前田家の行方もまた大きく変わっていたのかもしれません。
万治元年没、享年66。戒名が微妙院殿一峯克厳大居士であることから、「微妙公」と呼ばれるのも、どこかユニークです。
更新:12月10日 00:05