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前田利家誕生~戦国を駆け抜けた加賀百万石の祖

2017年12月25日 公開
2018年12月03日 更新

12月25日 This Day in History

前田利家
金沢城公園・前田利家像(石川県金沢市)
 

「槍の又左」こと前田利家が生まれる

今日は何の日 天文7年12月25日

天文7年12月25日(1539年1月15日)、前田利家が生まれました。織田信長配下の歴戦の武将で、豊臣政権の五大老の一人としても知られます。

利家は天文7年、尾張荒子城主・前田利昌の4男に生まれました。幼名犬千代、通称孫四郎、又左衛門。『前田家譜』によれば天文20年(1551)、14歳の時に織田信長に仕え、翌天文21年(1552)の清洲城の守護代・織田信友との萱津の戦いで初陣を果たします。その後も弘治2年(1556)の稲生の戦い(信長の弟・信勝との戦い)や、永禄元年(1558)の浮野の戦い(岩倉城主・織田信安の息子・信賢との戦い)でも活躍。この頃から「槍の又左」の異名で呼ばれていたといわれます。また同じ頃、妻のまつを娶りました。しかし浮野の戦いの翌年頃、信長気に入りの同朋衆・十阿弥から侮辱を受けたため斬殺、信長の怒りを買って勘当されます。時に利家、22歳。

永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の折には、信長の勘気を解こうと、利家は出仕停止にもかかわらず馳せ参じ、敵の首級3つを取りますが許されません。さらに翌年、美濃斎藤氏との森辺(森部)の戦いで、「頸取(くびとり)足立」の異名を持つ敵の足立六兵衛を討ち取ったことで、ようやく信長の勘気が解かれました。

永禄年間に、信長は黒・赤の母衣衆(信長直属の精鋭部隊)を各10人ずつ選定、利家は赤母衣衆の筆頭に挙げられます(すでに勘当される前に選ばれていたともいわれます)。黒と赤の違いは、赤が黒よりも年少であるとも、黒は馬廻衆、赤は小姓より選定されたともいいます。永禄12年(1569)、利家は信長の命により、長兄・利久より前田家の家督を譲られました。利久の病弱が理由とされます。ちなみに利久の養子が傾奇者・前田慶次郎利益でした。以後、利家は信長の馬廻として、旗本を固めながら緒戦に参戦。元亀元年(1570)の野田・福島攻め、天正元年(1573)の一乗谷の戦い、翌天正2年の長島攻め、天正3年(1575)の長篠の戦いなどで活躍しました。長篠では、佐々成政らとともに鉄砲隊を指揮しています。

天正3年、越前一向一揆討伐が一段落すると、信長は越前の大半を柴田勝家に与え、府中には前田利家、佐々成政、不破光治の3人を置いて、「府中三人衆」とします。3人は勝家の目付であるとともに、勝家を旗頭とする北陸方面軍の一員でした。越前に置かれた北陸方面軍の使命は、文字通り北陸の制圧です。天正5年(1577)には方面軍に羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀らを加えて加賀に進攻しますが、手取川の戦いで上杉謙信に敗れました。 しかし翌年、謙信が急死したこともあり、天正8年(1580)に方面軍は加賀を平定。翌天正9年には、利家は能登一国を与えられるに至ります。

方面軍はさらに越中へと進攻、上杉軍と対峙しますが、この時に起こるのが明智光秀による本能寺の変でした。信長死すの報に、利家の国許の能登でも反織田の策動があり、利家は荒山合戦でこれを鎮めます。この間に中国から兵を返した羽柴秀吉が、山崎の合戦で明智光秀を破りました。中央で勢力を拡大する秀吉に対し、雪の時期は身動きできない北陸方面軍。柴田勝家は利家や不破直治を使者として秀吉のもとに送り、和約を結びます。しかしそれが一時凌ぎに過ぎないことは誰もが承知しており、利家は北陸で苦楽を共にした勝家に味方するか、4女の豪を羽柴家の養女にするほど、家族ぐるみで親しい秀吉につくか悩みました。

そうした中、天正11年(1583)4月、柴田軍と羽柴軍が賤ヶ岳で激突。利家は柴田軍の一翼を担いますが、羽柴軍の攻撃を受けると戦線離脱。柴田軍はあえなく敗れました。その後、利家は敗走する勝家を府中城に迎えますが、勝家は利家に一言も文句を言わず、これまでの友誼を謝し、秀吉への降伏を勧めました。勝家の人物の大きさを感じさせます。秀吉に従った利家は、賤ヶ岳で勝利をもたらした功績として、加賀の石川・河北二郡と金沢城を与えられました。天正12年(1854)には秀吉の越中・佐々成政攻めの先導役を務め、その功で息子・利長に越中のうち3郡が与えられ、利家は加賀・能登・越中にまたがる大大名となります。

以後、利家は秀吉の信頼を得て、小田原攻めでは上杉、真田らを束ねる北国勢の総指揮を任され、朝鮮の陣では名護屋にあって、徳川家康とともに諸将を指揮しました。文禄4年には秀頼の傅役を託され、秀吉が没する直前には家康とともに五大老の上席となります。秀吉にすれば、その後の家康を牽制できるのは、利家のみと見たのでしょう。

しかし秀吉の誤算は、利家の寿命が残り僅かであったことでした。秀吉が没した翌年の慶長4年(1599)閏3月3日、利家は豊臣家の将来を案じつつ没します。享年61。信長、秀吉から絶大な信頼を得ていた歴戦の利家がもう少し生きていれば、関ケ原のかたちは大きく変わっていたかもしれません。

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