2018年03月29日 公開
2019年02月27日 更新
天正18年3月29日(1590年5月3日)、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が、豊臣秀吉による小田原攻めの際、山中城の戦いで討死しました。秀吉の信頼が篤かった武将として知られます。
一柳直末は天文15年(1546)、美濃厚見郡西野(現在の岐阜県岐阜市西野町)の土豪・一柳直高の子に生まれました。通称は市助(市介)。父の直高は斎藤龍興に仕え、その後、織田信長に臣従したといいます。
直末は秀吉が信長に仕えていた時代から、9歳年上の秀吉の下で働いていました。天正7年(1579)の34歳の時に三木城兵糧攻め、天正9年(1581)の36歳の時に鳥取城兵糧攻めに参加しています。さらに天正11年(1583)、38歳の時には、賤ヶ岳の合戦で弟・直盛とともに軍奉行を務め、功績がありました。
天正13年(1585)に羽柴秀次が近江八幡43万石を与えられると、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、山内一豊らとともに、秀次付きの家老格となり、美濃に3万石を拝領して大垣城主となります。さらに天正17年(1589)には美濃の軽海西城(現在の岐阜県本巣市)に移り、6万石を領しました。
翌天正18年(1590)、小田原攻めが始まります。まずその手始めに、秀吉は秀次に6万の大軍を与え、北条氏にとって小田原の西の最重要拠点である山中城(静岡県三島市)の短期攻略を命じました。もちろん秀次の麾下には、直末をはじめ、田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊らの面々が行動をともにしています。また山中城の南からは堀秀政、丹羽長重、木村重高、長谷川秀一らが迫り、北には徳川家康が陣取りました。
3月29日、山中城への総攻撃が始まります。山中城は北条氏勝を筆頭に、松田康長、間宮康俊らが4000の兵で待ち構えていました。この時、城への一番乗りを果たしたのが、中村一氏配下の渡辺勘兵衛です。「槍の勘兵衛」の異名で知られる剛将は、中村隊の先鋒として出丸の塀に取り付き、城に飛び込みました。
渡辺勘兵衛はその時のことを、「渡辺水庵覚書」に詳細に記しています。それによると、出丸の中は大した抵抗もなかったが、出丸の先には逆茂木があり、三の丸櫓門では城方の猛烈な抵抗があって、鉄砲で将兵がばたばたと射倒された、という内容でした。その三の丸櫓門を攻撃していたのが、直末です。
北条方は間宮康俊が指揮して鉄砲をつるべ撃ちにし、容易に近づけません。しかし、秀吉が短期攻略を命じる以上、手をこまねいているわけにもいきませんでした。やむなく直末は自ら先頭に立って将兵を率い、猛攻を仕掛けますが、敵の銃撃を受けて討死しました。享年45。一城の主が戦死を遂げたことを見ても、この時の戦いがいかに激しかったかが窺えます。
しかし数を恃む寄せ手が搦め手を攻略すると、山中城は急速に戦力を失い、僅か半日で落城することになりました。 山中城落城後、一柳直末の討死を聞いた秀吉は、「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほとんど口をきかなかったといわれます。
なお、一柳の家は弟の直盛が継承し、大名家として維新まで存続しています。
更新:12月10日 00:05