2018年04月22日 公開
2019年03月27日 更新
天正13年(1585)4月22日(または24日)、羽柴秀吉の紀州攻めで、太田城が落城しました。城に立てこもって抵抗したのは、太田左近宗正を大将とする雑賀衆太田党。今回は、その太田左近についてご紹介します。
紀州攻めに踏み切った秀吉は太田党が籠もる太田城を水攻めにしています。これは雑賀孫一が雑賀を去った、しばらく後の話です。この時、秀吉はなぜ「水攻め」に踏み切ったのか。それは、太田城の抵抗が極めて頑強だったからです。
秀吉は、太田城に対して降伏勧告をします。しかし、太田左近は断乎としてこれを容れません。
「太田城は、確かに小城である。しかし、堀は深く、櫓は高い。敵の大軍を恐れて降参するのは、勇士のなすべきことではない。私は、この城を枕に潔く討死する覚悟だ」
左近は、城兵に切々と訴えかけました。リーダーの覚悟を目の当たりにし、臆する雑賀衆ではありません。皆、左近に賛同し、一丸となっての籠城を決しました。
はがて秀吉勢の総攻撃が始まります。3,000の兵を擁する堀秀政隊を先陣に、太田城に猛攻を仕掛けます。しかし、太田勢は雑賀衆ならではのゲリラ戦法でこれに応酬。近くの森など至る所に鉄砲隊が伏せ、正確無比の銃撃で撃退します。
戦いの様子を記した史料『根来焼討太田責細記』には、こんな記述もあります。
秀吉軍が城に近づこうとすると、突如として器のような物がどこからともなく飛んで来て、その物体は雷のような大音響とともに煙を発して、鉄炮のように火炎を吹き出した…。
この兵器が果たしてどんな物だったか、詳細は分かりません。とはいえ、雑賀衆が様々な手法を凝らして、秀吉軍を大いに苦しめたことは間違いないようです。堀隊も精鋭が討ち取られたといいます。
ここに秀吉は、備中高松城攻めの時にも用いた「水攻め」を行なうに至るのです。当時の秀吉は、天下を睨むためにも、紀州攻めに時間をかけたくはありませんでした。それでも、持久戦となりかねない水攻めを敢行したところに、秀吉の苦衷が見て取れます。
秀吉は諸将に命じ、全長7.2km、高さ5mともいわれる大きな堤を築かせました(数字は諸説あります)。太田勢もなお手榴弾や鉄砲、投石で対抗しますが、多勢に無勢、次第に追い詰められます。秀吉が堤防を築いた後、激しい大雨が降ったことも太田勢にとっては致命的でした。
このままでは、兵糧が尽きるのも時間の問題。かくなる上は、城兵の命だけでも救わねば――。ここに、左近は部下を蜂須賀正勝のもとに遣わし、自らの命と引き替えに城兵の助命を嘆願。秀吉はこれを受諾し、主だった城将53人が切腹し、太田城は開城するのです。
「1ヶ月に及ぶ水攻めをうけた後、最後はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという」
JR和歌山駅東口ロータリーに建つ太田左近像の案内板は、左近についてこう解説した後、次の文で締めくくります。
「中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるだろう」
自身の信念と覚悟を胸に、大勢にも決して屈せず、いかなる状況に陥っても毅然とした態度を崩さない。太田左近もまた、雑賀孫一と同様、雑賀衆の象徴といえる人物の一人でしょう。
更新:11月21日 00:05