2018年03月04日 公開
2024年07月19日 更新
明和8年3月4日(1771年4月18日)、杉田玄白、前野良沢らが小塚原で、処刑された死刑囚の腑分け(解剖)を見学しました。以後、彼らは医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳にとりかかります。
前野良沢は中津藩の藩医で蘭学者。この時、49歳。杉田玄白は若狭小浜藩の藩医で蘭学者、この時、39歳です。発端は蘭学者の中川淳庵がオランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』を玄白に見せ、中に図示されている人体の解剖図の精密さに驚いたことでした。
精密であるとともに、それまで学んでいた漢方の「五臓六腑」とは、随分異なります。そこで長崎でやはり『ターヘル・アナトミア』を購入していた前野良沢と連れ立って、小塚原の腑分けを見学することにしました。腑分け自体は宝暦4年(1754)に京都で山脇東洋が実施してから17年経っていましたが、多くの医者は解剖を実際に見たことはなかったのです。
玄白らは『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに驚愕しました。そこで玄白、良沢、淳庵らは一念発起し、翌日からその翻訳にとりかかるのです。とはいえ玄白も淳庵もオランダ語はまったくわからず、長崎に留学経験のある良沢のみが、僅かに単語を知っている程度。翻訳はさながら暗号解読の様相であったことは、よく知られています。毎月数回、築地の良沢の家に集まっては翻訳に取り組み、その過程で「神経」「動脈」「軟骨」「十二指腸」などの用語を生み出します。
学究肌の良沢に対し、グループのまとめ役は玄白が引き受け、さらに玄白の友人で将軍家侍医の桂川甫三の子・甫周も加わり、3年後の安永3年(1774)、『解体新書』として結実しました。しかし、内容がまだ不完全であるとして、良沢は訳者名を載せることを辞退したといわれます。
この『解体新書』の刊行で、日本の医学が大きく前進したことは間違いなく、またオランダ語の翻訳への関心も高まりました。ちなみに、かつてテレビで、神田神保町の古書店で販売されている『解体新書』の初版本が紹介されていましたが、お値段はおよそ300万円ほどだそうです。
更新:11月23日 00:05