2018年02月03日 公開
2019年01月24日 更新
文政12年2月3日(1829年3月7日)、西周(にしあまね)が生まれました。幕末の津和野藩士で、「哲学」という言葉を創った啓蒙思想家として知られます。
西周は文政12年、津和野藩亀井家の御典医を務める森家の血筋・西時義(旧名・森覚馬)の息子に生まれました。通称、周助とも。森家からは後に文豪・森鴎外が誕生しています。
天保12年(1841)、13歳で藩校・養老館で蘭学を学んだ後、嘉永6年(1853)、25歳の時に藩命で江戸に出ました。ちょうどその時、ペリー来航に直面し、蘭学・洋学の研鑽を痛感した周は、脱藩して洋学に打ち込みます。中浜万次郎らから英語を学んだといいます。
やがてその才腕を幕府に買われ、蕃書調所に勤めることになり、津山出身の津田真道らと知り合いました。文久2年(1862)、34歳の時に幕府留学生として津田や榎本武揚らとともにオランダ留学に赴き、ライデン大学で法学、経済学、統計学などを学んで、カントの哲学も修めます。
慶応元年(1865)に帰国すると、周は幕府の開成所教授に就任し、翌慶応2年(1866)、徳川慶喜に招かれて上洛しました。周は慶喜の顧問となってフランス語を教えたり、外交文書の翻訳や、イギリス・フランスとの交渉役を務めたりもしています。
そんな周はこの頃、会津藩士・山本覚馬と知り合います。紹介したのは、第二次長州征伐の休戦協定を成し遂げた後、しばらく京都に滞在していた勝海舟でした。勝は山本覚馬の砲術・洋学の師匠筋です。やがて周が京都四条大宮西入ルの更雀寺に居を構えて洋学塾を開くと、オランダ帰りの洋学者から新知識を得ようと、諸藩の士が詰め掛けて、塾生の数は500人にも及んだといいます。周と山本覚馬は意気投合し、覚馬は周の塾に自由に出入りして、講義に耳を傾けました。
周は塾で国際法や経済学を講義し、実学への関心が高まっていたこともあって、周の塾は大変な賑わいを続けました。山本覚馬はその頃、ほとんど視力を失っていましたが、周が伝える『万国公法』の全文を人に読んでもらって暗記し、晩年になってもすべて暗唱することができたといいます。それだけ真剣に学んでいたことが窺えます。
西周訳の『万国公法』が出版されるのは、慶応4年(1868)のことでした。 同年、維新を経て、周は徳川家が開いた沼津兵学校の初代校長に就任します。明治3年(1870)には請われて新政府に出仕し、諸省の官僚を歴任しました。明治6年(1873)には森有礼、福沢諭吉、津田真道らとともに明六社を結成、機関紙『明六雑誌』を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介に努めています。
そして明治7年(1874)、山本覚馬の働きかけで、西洋哲学に関する周の講義録(覚馬が記録)をまとめた『百一新論』を覚馬が出版。その中で「フィロソフィー」を「哲学」という訳語で論じていたことで知られます。 周のオランダ仕込みの新知識は、覚馬が慶応4年に幽閉されながら口述筆記した「管見」にも大きな影響を与えていたことでしょう。覚馬が描いた近代日本の青写真に、周の存在は欠かせなかったはずです。
周はその後、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長などを務め、明治30年(1897)に没しました。享年68。『百一新論』の序文は山本覚馬の手によりますが、そこには「我友西氏」と書かれています。
更新:11月22日 00:05