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福澤諭吉の思想~一身独立して一国独立す

2018年02月03日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

福澤諭吉
 

福澤諭吉が生まれる

今日は何の日 明治34年2月3日

明治34年(1901年)2月3日、福澤諭吉が没しました。享年67。幕末の中津藩士、のちに旗本。啓蒙思想家、また慶応義塾を創設した教育者で、一万円札の肖像でもおなじみです。

福澤諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)、中津藩士・福澤百助の末子として、大坂の中津藩蔵屋敷に生まれました。幕末の人物と比較すると吉田松陰よりも4歳年下、坂本龍馬よりも1歳年上になります。19歳で長崎に遊学して蘭学を学び、翌年、大坂の緒方洪庵の適塾に入門。住み込みの弟子となり、安政4年(1857)には23歳で適塾の塾頭になりました。当時の生活は『福翁自伝』などに活写されています。

その後、藩命で江戸に出ると、安政5年(1858)に築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶応義塾の起源とされます。翌安政6年(1859)には、咸臨丸渡米に司令官である木村摂津守喜毅の従者として随行。帰国すると、諭吉は木村の推薦で幕府外国方に出仕しました。文久2年(1862)には幕府の遣欧使節に翻訳方として随行し、ヨーロッパ諸国を歴訪。途中、アジアの植民地の実態に接し、欧州では日本にない銀行・郵便・徴兵令・選挙制度・議会制度などを調べました。

帰国後、元治元年(1864)には幕府直参として取り立てられ、お目見え以上の旗本となり、外国奉行支配の翻訳局に務めます。慶応3年(1867)には幕府の軍艦受取委員として、再びアメリカに赴きました。慶応4年(1868)4月、塾を鉄砲洲から新銭座に移し、慶応義塾と名づけます。日本初の授業料の制度を定め、上野彰義隊の戦いの砲声の中、ウェーランド経済書の講義を続けたことはよく知られています。

明治4年(1871)、慶応義塾を新銭座より三田に移し、そして翌明治5年(1872)から『学問のすゝめ』を書き始めました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」の一節で始まる『学問のすゝめ』は、明治5年から5年間にわたって次々と発表され、「340万冊流布せり」という記録もあるほどの、明治初頭の一大ベストセラーになります。その内容は身近な話題をふんだんに取り入れた、庶民にもわかりやすい文章で書かれていました。

では、諭吉の言う学問とは何を指すのでしょうか。 「専ら勤しむべきは人間普通日用に近き実学なり」と諭吉は記し、具体的には読み書き算盤、簿記、地理・歴史、物理、経済学などを挙げています。つまり日常生活や商売を営む上で必要な知識の修得と、日本と世界の状況や、自然の道理を正しく把握することを勧めたものでした。 諭吉がなぜそれらを勧めるかといえば、「情報を正しく取捨選択する能力を一人ひとりが身につける」ことが目的でした。人々が自分で考え、自分の判断で行動すること、つまり近代国家の国民に求められる「一身独立」により「一国独立」が成り、それは学問の有無にかかっている、というのが本書の主題なのです。

いつくか、その内容を紹介してみましょう。

「一身独立して一国独立する」 。学問の目的は、まず第一に「一身の独立」にある。独立できていない人間は他人から侮られ軽んぜられるが、国家も同じである。国民が甘え・卑屈・依存心から脱却し、日本は自分たち自身の国であるという気概を持たない限り、日本は独立した近代国家として諸外国から認められることはない。

「人民が無知・文盲ならば政府は威力で押さえつけることになる。よき政府は、人民の品性によって決まる」
「圧制から逃れるには学問に志し、才能と品格を磨き、政府に対して同等の資格と地位に立つだけの実力を持つべし」
「文明の外観はほぼ備わったように見えるが、それは政府が些細なことまで関わり、指示したからである。まるで人民は政府の居候(いそうろう)であり、政府への依存心はますます強くなっている。一国の文明は政府からではなく、庶民から生まれるものだ」
「政府は国民の名代である。政府は国民を守り、その費用を税金でまかなうと約束したのである。約束した以上、法を破れば自分が作った法を破ることになる。その法が不便ならば遠慮なく訴えるべきだが、施行されている間は守らねばならない」

現代にも通じる内容が少なくないように感じられます。諭吉は『学問のすゝめ』を通じて、日本と日本人の進むべき方向を示したかったのでしょう。諭吉の目指す文明開化とは、換言すれば日本の近代化・国際化であり、諸外国に侮られることなく、対等の交際ができる国家になることでした。そのためには国民が独立していなければならない。日本人としての自主性、気概、見識を持たなくてはならない、そんな思いが感じられます。 世界を自分の目で見てきた諭吉ならではの、切なる思いに対し、現代の私たちは果たしてどうなのか、考えさせられます。

明治34年(1901年)1月25日に脳溢血が再発、2月3日に東京で没。享年67。

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