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明恵上人の生涯~華厳宗中興の祖

2018年01月19日 公開
2018年12月25日 更新

1月19日 This Day in History

お茶の花
 

明恵上人が遷化

今日は何の日 寛喜4年1月19日

寛喜4年1月19日(1232年2月11日)、明恵上人が遷化しました。鎌倉時代の僧で、華厳宗の中興の祖としても知られます。

明恵は承安3年、平重国の息子として、紀伊国有田郡石垣荘に生まれました。幼名、薬師丸。その年、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮に上がり、世は平氏の全盛期でした。しかし、やがて平氏は没落し、平氏に連なる父親や明恵の運命も変えていきます。

治承4年(1180)、明恵が8歳の時に母が他界。同年、打倒平氏を掲げて挙兵した源頼朝を討つべく東国に向かった父・重国は、上総国で討死しました。このため、明恵は孤児になってしまいます。

叔母のもとに身を寄せた明恵は、9歳の夏に京都高雄の神護寺に入り、叔父の上覚上人に師事。16歳で出家しました。上覚は源頼朝に帰依された文覚の高弟で、明恵は文覚にも師事して、将来を嘱望されていきます。

その後、仁和寺で真言密教を、東大寺で華厳宗、倶舎宗を、栄西から禅を学びますが、23歳で俗縁を断って、紀伊国有田郡に遁世しました。ちょうどその頃の建久6年(1195)、明恵は有田郡の湯浅湾を一望する白上峰に庵を結び、華厳の修学と密教の観行に努めていました。

やがて釈尊を追慕する余り、天竺(インド)へ渡ることを思い立ちます。そして京から宋の長安を経て、天竺までの行程を調べ上げました。ところが建仁3年(1203)に春日明神が夢枕に立ち、「日本を離れてはならぬ」という神託を受けます。明恵には若い頃からの観行における夢想を記した『夢記』がありますが、これもそうだったのでしょうか。それでも明恵は元久2年(1205)に再び天竺を目指しますが、直前に急病となり、さらに再び春日明神の「渡るべからず」というお告げがあったために、ついに断念したといいます。

翌建永元年(1206)、後鳥羽上皇から京都の栂尾(神護寺の別所)を与えられ、明恵は高山寺を開山。華厳宗の復興に尽力し、また密教との融合を図りました。深山の寺でしたが、明恵を慕って、10年も経つと50人の弟子たちが集まります。

明恵の言葉として次のようなものがあります。

「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)と云ふ七文字を持つべきなり」

僧は僧のあるべきように、俗は俗のあるべきように、臣下は臣下のあるべきように、今生きている現世を生きるべきだという意味です。

また明恵は栄西からもらった茶の種子を栂尾に蒔き、茶の普及のきっかけを作ったこともよく知られます。 華厳宗中興の祖と仰がれた明恵が高山寺で遷化したのは、寛喜4年1月19日のことでした。享年60。

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