歴史街道 » 編集部コラム » 浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が生まれる

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が生まれる

2017年04月01日 公開
2019年03月27日 更新

4月1日 This Day in History

今日は何の日 4月1日

愚禿親鸞

承安3年4月1日(1173年5月21日)、親鸞が生まれました。浄土真宗の宗祖で、浄土真宗では親鸞聖人と呼ばれます。

平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮となった翌年、京都で日野有範(ありのり)の子に生まれたのが親鸞でした。世は「平家にあらずんば人にあらず」といわれた平家全盛の時代。親鸞は養和元年(1181)、9歳で出家・得度し、範宴(はんねん)と名乗ります。そして比叡山に上り、不断念仏を修する堂僧として、厳しい修行と学問の日々を20年間送りました。その間に平清盛は没し、平家は滅んで、世は鎌倉幕府の時代へと移っています。

29歳の頃、比叡山で悟りの道を見出せない親鸞は、山を下って毎晩、聖徳太子ゆかりの六角堂に参籠することを100日間続けました。そして95日目の暁、太子と縁の深い救世(ぐぜ)観音が夢に現われ、東山の吉水で本願念仏の教えを説く、法然(ほうねん)を示されたといわれます。また、毎晩山を下りる親鸞に代わり、親鸞が彫った自身の木像が振舞われた蕎麦を食べて、親鸞が不在であることを隠したという伝説は、この頃のことでした。

親鸞は比叡山を下り、法然の草庵を100日間通い続け、ついに法然の弟子となります。当時、法然は69歳。範宴から綽空(しゃっくう)と名を改め、学問を研鑽し、法然の教えを吸収していきます。法然も親鸞に信頼を寄せました。入門から5年後には法然の著書『選択(せんじゃく)集』の書写と肖像画の制作を認められます。どちらも限られた門弟にしか許されないものでした。そして名乗りを綽空から善信(ぜんしん)に改めることも許されます。

しかし建永2年(1207)、法然の教えが広まるにつれ、比叡山や南都仏教からの非難が強まり、さらに後鳥羽上皇の留守中に、院の女房が法然門下の法会(ほうえ)に参加して出家したことに上皇が激怒して、法然の「専修念仏」の禁止、法会を行なった法然の弟子は死罪、さらに僧籍を剥奪されて法然は讃岐へ、親鸞は越後に流罪となりました(承元の法難)。これが法然、親鸞師弟の永別となります。そして親鸞は「愚禿(ぐとく)親鸞」と名乗り、非僧非俗の立場となりました。時に親鸞、35歳。

三善為教(ためのり)の娘・恵信尼と結婚した親鸞は、越後で在俗のまま念仏の生活を送ります。流罪から5年後、罪が赦免されますが、親鸞は越後に留まり、教えを広めていきました。建保2年(1214)、42歳の時に関東での布教を志し、妻子や門弟を連れて常陸国に赴きます。そして小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を拠点に、自らが信じる本願念仏の教えを、性別や身分に分け隔てなく伝えました。親鸞の主著とされる『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』も、稲田の草庵で4年の歳月をかけて著わされたといいます。そこには、阿弥陀如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」を信じることで誰もが浄土への往生ができ、その後は報恩感謝の念仏の生活を送ることが説かれます。そしてそれは阿弥陀様のお力によるものであり、凡夫のはからい(自力)ではないとする、絶対他力の教えでした。 嘉禎元年(1235)、63歳頃、関東で20年に及ぶ布教を終えた親鸞は京都に戻り、「和讃」などの多くの書物を著わして、弘長2年(1262)11月、入滅。享年90。

流罪以来、非僧非俗の生涯でした。没後10年に大谷に廟堂が建立され、後に寺院化されて本願寺となります。

歴史街道 購入

2024年12月号

歴史街道 2024年12月号

発売日:2024年11月06日
価格(税込):840円