2017年11月04日 公開
2018年10月26日 更新
昭和5年(1930)11月4日、秋山好古が没しました。「日本騎兵の父」として知られ、秋山真之の兄としてもおなじみです。
安政6年(1859)に伊予松山の下級藩士の家に生まれた秋山信三郎好古は、若い頃から家計を助けるために銭湯で働きますが、学問を怠らず、明治10年(1877)に19歳で陸軍士官学校に入学。軍人の道を歩みます。明治18年(1885)には陸軍大学校を卒業、目前に開けていた出世街道に目もくれず、旧藩主の若様・久松定謨(さだこと)の御付としてフランスに留学し、フランス騎兵隊を研究しました。日本の騎兵は、この好古の決断に始まるといっても過言ではありません。帰国後、明治26年(1893)に騎兵第一大隊長に任官し、日清戦争で実戦経験を積みます。その後、ロシアとの対決が避けられない情勢の中、質量ともに勝る世界最強のロシア・コサック騎兵とどう戦うかが、好古のテーマとなりました。
明治36年(1903)に騎兵第一旅団長に就任した好古は、麾下の騎兵の兵力をこれ以上増大できなない現状では、火力を強化するしかないという結論に至ります。彼が目をつけたのがホチキス機関銃で、上層部を説得し、11挺を装備させました。これが後に大きくものをいうことになります。明治37年(1904)に日露開戦となると、好古率いる騎兵第一旅団は第二軍(司令官・奥保鞏)に属し、遼東半島に上陸後、騎兵ならではの機動力を活かして、先行偵察と敵の通信網破壊に活躍します。第二軍司令部は好古に歩兵一個連隊と砲兵一個中隊を加え、「秋山支隊」へと改編。さらに遼陽会戦前には、騎兵三個連隊に工兵、砲兵を一個中隊ずつ増強され、秋山支隊は騎兵師団以上の規模になりました。上層部の好古への期待が窺えます。
遼陽で敵を追うと、秋山支隊は日本軍の最左翼として北上しました。明治38年(1905)1月、ロシア軍は日本側の意表をついて、日本軍左翼に大軍で猛攻を仕掛けてきます。黒溝台会戦でした。この時、矢面に立たされたのが立見尚文率いる弘前第八師団と、好古の秋山支隊です。立見と好古という名将二人の懸命の踏ん張りで、黒溝台は辛うじて守られました。
そして同年2月末、「日露戦争の関ケ原」と称される奉天会戦が始まります。日本軍は右翼から左翼にかけて、鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍、そして旅順から到着した第三軍が戦列を布き、25万の全軍を挙げて敵32万に総攻撃を開始しました。この時、好古は左翼の第三軍とともに迂回行動をとり、機動力を活かして一気に北上します。対するロシア軍の騎兵の多くは、すでに敵中深く潜行する永沼秀文挺身隊や建川美次挺身隊を追撃して奉天付近から離れており、好古には幸いしました。それでも敵騎兵が秋山支隊の阻止に動くと、好古はなんと部下たちを馬から下ろし、騎乗戦闘を仕掛けてきた敵を機関銃で斉射して撃退。当時の騎兵の常識を破った戦法で、秋山支隊は第三軍の進路を切り開いたのです。3月7日には奉天に20kmにまで迫り、ロシア軍の総司令官クロパトキンが撤退を命じる大きなきっかけを作りました。
日露戦争で存分にその力を発揮した好古は、その後、第十三師団長や近衛師団長を歴任し、大正5年(1916)に陸軍大将に累進。大正12年(1923)に予備役となり、元帥叙任の話もありましたが、これは好古本人が固辞したといわれます。翌大正13年(1924)、請われて故郷松山の私立北予中学校(現在の県立松山北高校)の校長に就任。陸軍大将まで務めた者のポストでは本来ありませんでしたが、好古は「自分でお役に立つのなら」と引き受け、以後、退職までの6年間、無遅刻無欠勤を続けました。
「男子は生涯一事をなせば足る」が好古の口癖でした。それは好古が世界最強のコサック騎兵を破る騎兵隊を育てた「一事」を指すという解釈もありますが、好古の晩年の姿を思うにつけ、その一事とは「あくまで誠実に、自分の役割を果たす」ことを意味していたのではないかとも思われます。
昭和5年(1930)、秋山好古没。享年72。臨終間際に発した「馬引けい」が最期の言葉であったといわれます。
更新:11月23日 00:05