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ロシアのクロパトキン将軍は野戦指揮官には不向きだった?

2017年03月29日 公開
2019年02月27日 更新

3月29日 This Day in History

今日は何の日 1848年3月29日

日露戦争 ロシア満洲軍総司令官 アレクセイ・クロパトキン生まれる

1848年3月29日、アレクセイ・クロパトキンが生まれました。日露戦争におけるロシア満洲軍総司令官として知られます。日本軍に対して、後退戦術をとったともいわれますが、実際はどうであったのでしょうか。

クロパトキンは1848年、プスコフ県(ロシア南西部)の退役大尉の家に生まれました。正式な名前はアレクセイ・ニコラエビッチ・クロパトキン。 1864年、16歳の時にハブロフスク軍学校に入校、卒業後に陸軍中尉に任官し、トルキスタン大隊に配属されます。1867年から翌年にかけて、ブハラ遠征、サマルカンド攻略に参加しました。

1871年、参謀本部アカデミーに入校すると、首席で卒業。1876年にはエム・デ・スコボレフ将軍の参謀として、29歳で露土戦争に従軍しています。一説にこの時、クロパトキンは将軍から次のような辛辣な言葉を浴びたといわれます。

「君は二流の役割が適していることを覚えておきたまえ。主役を引き受けるのは、やめた方がいい。君には決断力と堅固な意志が欠けている。どんな素晴らしい計画も立てられないし、それを最後まで決してやり抜けはしない」。

後年の満洲における戦いぶりを予言するような言葉です。29歳の若い参謀に対して、辛辣に過ぎるようにも感じますが、むしろ予見したスコボレフ将軍の眼力を評価すべきでしょうか。 1879年にトルキスタン狙撃兵旅団長に任じられ、1881年にはトルキスタンの反乱を鎮圧。1890年には中将に進級し、ザカスピ軍管区司令官に就任します。

1898年、50歳で陸軍大臣に任命されると、事務能力に優れた政治的能力の高い軍人という評価を得ました。 宮廷武官として皇帝に気に入られた者が出世し、軍の要職に就くという悪弊がロシア軍にはありましたが、クロパトキンもそれにあてはまるのかもしれません。

陸軍大臣時代の1903年(明治36年)、クロパトキンは皇帝の命を受け、極東視察のために日本を訪れました。ロシアとの緊張関係が高まる中のことで、日本側も相当神経を尖らせましたが、当人は物見遊山気分もあったのか、土産物をごっそり買って行ったといいます。

1904年(明治37年)、日露開戦。クロパトキンは日露戦争には反対でしたが、ロシア満洲軍総司令官に任ぜられます。しかし、野戦指揮官には不向きで、大事な戦いで数々のミスを犯すことになりました。 1904年8月の遼陽会戦では、日本軍の第二軍と第四軍が正面のロシア軍に苦戦する中、第一軍が太子河を渡河して、ロシア軍左翼を攻撃します。するとクロパトキンは、瀕死の状態にある第二軍、第四軍の正面から兵力を引き抜いて自軍左翼に向かわせ、みすみす日本軍を助けることになりました。

奉天会戦の前哨戦ともいうべき黒溝台会戦は、クロパトキン麾下の第1軍リネウィッチ、第3軍のカウリバルスが、日本軍が陣営を整える前に日本軍左翼を衝くことを進言したことから起こるものです。しかしクロパトキンは増援部隊の到着を待ってから動こうと、両将と対立しました。 クロパトキンがようやく折れて、ロシア軍の攻勢が開始されたのが1905年1月末。しかしこれを第八師団の立見尚文はすでに見抜いており、座視することなく先制攻撃をかけます。このためロシア軍総攻撃は後手に回り、日本軍に撃退されることになりました。 黒溝台会戦後、第2軍のグリッペンベルグは病気療養と称し、本国に帰ってしまいます。クロパトキンに対する不信任であり、第1軍のリネウィッチもクロパトキンの能力に限界を感じ始めていました。

そして2月末からの奉天会戦。日本軍25万に対し、ロシア軍は32万です。よく知られるように、クロパトキンは旅順を攻略した乃木希典の第三軍を日本の最精鋭部隊と見て、その動向に神経を尖らせていました。そしてロシア軍左翼に攻めかかった鴨緑江軍を第三軍と勘違いし、兵力を左翼に集中させます。

当の第三軍はロシア軍右翼を迂回して奉天を目指しており、それに気づいたクロパトキンは、今度は兵力を右翼へ集中。クロパトキンが乃木を怖れるあまり、ロシア軍は無駄な労力と時間を浪費することになりました。

そして乃木第三軍がロシア軍の背後を遮断する動きを見せると、退却路を失うことを恐れたクロパトキンは、第1軍と第3軍に退却命令を出し、ロシア軍は分断されて作戦は破綻しました。 結果的にクロパトキンは当初の退却予定の鉄嶺でも踏ん張ることができず、公主嶺まで退却し、奉天会戦の日本軍勝利が確定します。さすがにロシア本国もこれをクロパトキンの「戦術」とは認めず、彼は第1軍司令官に降格されました。

日露戦争後は軍中央から退き、第一次大戦ではロシア北方軍を率いてドイツ軍と戦いますが、大敗。1916年にはトルキスタン総督となり、バスマナ蜂起を鎮圧しました。晩年は故郷で教師として、静かな余生を送ったといいます。1925年、没。享年、78。

これがソ連時代であれば、日露戦争敗北の責任を取らされていたでしょうが、穏やかな晩年を送ることができたのは、まだしも幸運であったといえるのかもしれません。 また、野戦指揮が苦手なクロパトキンが総司令官であったことは、日本にとっては幸運でした。彼の指揮ぶりは逆説的に、勝利を得るためには何が求められるのかを教えてくれます。

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