延享元年9月24日(1744年10月29日)、石田梅岩が没しました。江戸時代の思想家で、「石門心学」の祖として知られます。
梅岩は貞享2年、丹波国桑田郡東懸村(現、京都府亀岡市)の農家の次男に生まれました。通称は勘平、名は興長。11歳で呉服屋に丁稚奉公し、奉公先の倒産で一時、郷里に戻るものの、23歳で再び京都の呉服屋に奉公に出ます。幼い頃から裏表なく懸命に奉公する一方、物事の本質を探ろうとし、時に「理屈が多い」などと周囲に煙たがられることもありました。非番の休みもとらずに働く梅岩に、奉公先のご隠居から「たまには外に出ては」と夜遊びを勧められることもあったほど。その後、努力の甲斐あって梅岩は番頭にまで昇進、女主人が臨終の際に、「勘平の行く末を見ることができないのが残念」と語るほど信頼されていました。しかし、そんな梅岩をやっかみ混じりに「店を乗っ取ろうとしている」などと陰口を叩く者も現われます。当の梅岩といえば「いかに生きるべきか」と真剣に考え、周囲がまだ寝ている早朝や深夜に神道の本や四書五経などを読んでは、模索を続けました。
享保12年(1727)、梅岩が43歳の時、在家の仏教者・小栗了雲に出会って師事するようになり、人の道、特に商人の道を自ら説くことを思い立ちます。2年後に店を辞めた梅岩は、45歳の時、京都の借家の自宅で「無料講座」を毎晩開きました。「聴講料無料、出入り自由」の上、女性も障子越しに次の間で聞くこともできます。無料とはいえ毎晩人が入るとは限らず、時に聴講者が一人だけで、恐縮したその者が帰ろうとすると、「私は誰もいない時は机に向かって話している。あなたがいれば十分です」と一人を相手に講義を行ないました。無料ですから、すべて梅岩の持ち出しですが、それをも構わずに梅岩がひたむきに語った内容、それが後年「石門心学」と呼ばれるものです。
梅岩の姿勢は「一に泥(なじ)まず、一を捨てず」という言葉が象徴するように、心を磨く材料であれば、儒教・仏教・道教・神道・国学いずれも捨てず、いずれにも執着せずと、偏見なく活用しました。そして教えの基本を記したものが、梅岩の主著とされる『都鄙問答』です。梅岩の教えの一部を紹介すると、
「人の道というものは一つである。もちろん士農工商それぞれの道があるが、それは尊卑ではなく、職分の違いである」
「商売の始まりとは、余りある品と不足する品を交換し、互いに融通するものである」
「(従って)商人の得る利益とは、武士の俸禄と同じで、正当な利益である。だからこそ商人は、正直であることが大切になる。水に落ちた一滴の油のように、些細なごまかしがすべてを駄目にする」
「商人に俸禄を下さるのはお客様なのだから、商人はお客様に真実を尽くさねばならない」
「真実を尽くすには、倹約をしなくてはならない。倹約とはけちけちすることではなく、たとえばこれまで3つ要していたものを、2つで済むように工夫し、努めることである。無駄な贅沢をやめれば、それでも家は成り立ってゆくものである」
「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない」
「まことの商人は先も立ち、われも立つことを思ふなり(正しい商人とは、相手のためになって喜ばせ、自分も正当な利益を得る者をいう)」
現代にも通じる考え方が多々含まれているように思います。「商人の武士道」とでもいうべきこうした精神が梅岩によって育まれたからこそ、一種の商人道というものが確立し、明治以降の日本の近代化に大きく貢献したのかもしれません。
延享元年(1744)、梅岩没。享年60。その教えは、多くの後継者に受け継がれていくことになります。
更新:11月21日 00:05