2017年08月24日 公開
2023年04月17日 更新
文中2年/応安6年8月25日(1373年9月12日)、佐々木道誉が没しました。超一流の武将にして教養人、そして「ばさら者」として知られます。今回は、「ばさら者」らしいエピソードを紹介してみましょう。
道誉は永仁4年(1296)、近江源氏の名門・佐々木京極家に生まれました。諱は高氏。父親の佐々木宗氏は、検非違使で幕府評定衆でもあったといいます。道誉も家督を継ぐと鎌倉幕府に仕え、検非違使で佐渡守であったことから、「佐渡判官入道」と称されました。そもそも道誉というのは出家後の号で、嘉暦3年(1326)に執権・北条高時が出家した折、相伴衆の31歳の道誉も剃髪して名乗ったものです。なお、書状には「導誉」と書かれており、そちらの方が正しい可能性があります。
元弘2年(1332)、討幕計画が発覚して隠岐へ配流となった後醍醐天皇の、警固を務めたのが道誉でした。従ううちに道誉は天皇に魅了され、逆に幕府を見限る決心を固めます。翌年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が討幕を呼びかけると、幕府から上方に派遣された足利高氏(後に尊氏)は倒幕側につき、道誉もこれに合流しました。そして近江番場宿で六波羅探題軍を全滅させます。鎌倉幕府滅亡から2年後の建武2年(1335)、中先代の乱を足利尊氏が鎮圧した時、道誉は先鋒を務めていました。しかし、この乱が後醍醐天皇と尊氏の対立の始まりとなります。延元元年/建武3年(1336)、尊氏が室町幕府を開くと、道誉は若狭守護職、2年後には近江守護職に任じられました。
興国元年/暦応3年(1340)10月のことといわれますが、道誉は天台宗の門跡寺院・妙法院を焼討します。格式高い寺に乱暴狼藉を働いたわけですが、それには理由がありました。鷹狩の帰路、妙法院に立ち寄った折、道誉の下男が塀外に垂れ下がる紅葉を折ってしまいます。 たまたまその時、門主の法親王が紅葉見物の最中であったため、坊官たちは大いに怒り、下男を散々に打ちのめしました。 これを知った道誉は激怒し、300の軍勢で妙法院を焼き払ったのです。しかし妙法院の本山は比叡山延暦寺であったため、今度は比叡山が道誉父子を死罪にするよう幕府にねじ込みました。 やむなく尊氏は死一等を減じて、道誉父子を上総に流罪とします。ところが道誉は流罪など何処吹く風で、酒宴を開きながら京を落ち、供をする300人は皆、猿の皮の腰当をつけていました。これは比叡山の守護神・日吉神社の使いの猿へのあてつけです。しかも道誉一行は、近江あたりまで華やかな行列で進みますが、その後はどこかに雲隠れしてしまいました。天下の比叡山の怒りも煙に巻く、見事な「ばさら」ぶりといえます。ちなみに「ばさら」とは、サンスクリット語の「ヴァージラ(金剛)」に由来し、本来は非常に強くて固い意味ですが、やがて「乱暴、無遠慮、派手」などを意味しました。
正平21年/貞治5年(1366)、道誉は京童を仰天させるほどの大蕩尽会(だいとうじんえ)を大原野で催します。巨大な花瓶を用いて桜の大木をあたかも立花のようにしつらえ、一斤もの名香を焚き、その香りを四方に漂わせて、多くの人を夢見心地にする趣向でした。また花と香を楽しませるだけでなく、茶や猿楽、白拍子などの道誉が愛する諸芸も名人を都中から集めて披露させています。実は道誉が大蕩尽会を開いたこの日、将軍御所で道誉の政敵である斯波高経が花見の宴を開いていました。道誉も当初はこれに参加するはずでしたが、「ばさら」の血が騒いだのでしょう。将軍御所よりも遥かに派手な蕩尽会を開き、都の話題を一手にさらって、政敵の顔を見事につぶしてやったのです。その痛快なやり方こそ「ばさら者」の本領であり、道誉の魅力を引き立てています。
自由闊達にして痛快な異形の「ばさら者」、道誉が世を去るのは、大蕩尽会から7年後のことでした。享年78。
更新:11月23日 00:05