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鼠小僧は義賊ではなかった! はたして、その実像とは?

2017年08月19日 公開
2023年04月17日 更新

8月19日 This Day in History

鼠小僧

今日は何の日 天保3年8月19日

鼠小僧次郎吉が処刑

天保3年8月19日(1832年9月13日)、鼠小僧次郎吉が処刑されました。盗賊ながら、芝居などでは盗んだ金を貧しい人々に配る義賊として描かれます。黒装束にほっかむり姿で、闇夜に乗じて金持ちや大名の屋敷に忍び込み、大金を盗んでは、町の貧しい長屋に小判をそっと置いて去っていったという、ご存じ、義賊・鼠小僧。芝居や時代劇でもおなじみの人気キャラクターですが、実像はどうだったのでしょうか。 

寛政9年(1797)、次郎吉は芝居小屋の木戸番・貞次郎(定七とも)の長男として元吉原に生まれました。最初、建具職人・星十兵衛に弟子入りしますが16歳で家に戻り、続いて町方鳶(とび)人足となりますが、酒や女、博打を好むようになって身を持ち崩し、25歳の時に父親から勘当されています。結局、博打をやめることができず、盗人稼業に手を染めることになりました。 27歳の文政6年(1823)以降、武家屋敷に忍び込むこと28箇所、回数にして32回、盗んだ金は751両1分、銭7貫600文であったといいます。

文政8年に土浦藩主・土屋相模守の屋敷に忍び込んだところを捕らえられますが、南町奉行所の尋問で初めての盗みであると言い抜け、罪人の入れ墨を入れられて、中追放の罪で済みました。その後、一時期、上方に身を隠しますが、ほどなく江戸に舞い戻り、盗人稼業を再開します。そして7年にわたって武家屋敷71箇所、回数にして90回、盗んだ金は2,334両2分、銭3貫372文、銀4匁3分と前の時期を大きく上回る「おつとめ」をしてのけます。

その手口はといえば、塀を乗り越え、あるいは通用門から堂々と紛れ込み、主に奥向きに潜入して、錠前をこじ開けたり、土蔵の戸を鋸で切って、盗み出しました。奥向きに忍び込まれることは武家とすれば恥なので、被害にあっても口をつぐむ場合がほとんどで、そのために次郎吉の足がつきにくかったのでしょう。この辺は、なかなか計算していたようです。しかし、盗み出した金を次郎吉が貧しい人々に施した形跡はなく、贅沢と博打に使ってしまいました。

鼠小僧の墓
鼠小僧次郎吉の墓
(回向院・東京都墨田区)

天保3年(1832)5月、日本橋浜町の小幡藩主・松平宮内少輔の屋敷に忍び入って捕らえられ、北町奉行所で詮議の上、3ヵ月後に市中引き回しの上、獄門にかけられました。享年36。

もっとも、鼠小僧が義賊であるという話は、後世のものではなく、実は彼が盗人当時から世間では流れていたようです。おそらくはたった一人で武家屋敷に潜入し、まんまと大金をせしめる鼠小僧に、庶民が一種の痛快感を覚えたからなのでしょう。そんな男が義賊であれば、庶民はなおさら肩入れしたくなるというもので、いつか話に尾鰭がついたようです。

彼の墓石は本所回向院に建てられましたが、その後、墓石を削って所持していると賭け事に勝つという俗信が生まれ、墓石はたちまち小さくなってしまいました。現在は本物の墓石の前に、削るための別の石が置かれており、その人気(?)が今も続いていることが窺えます。

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