2017年08月15日 公開
2023年04月17日 更新
中島川沿いの復元された出島和蘭商館の白壁
(長崎市)
文化5年8月15日(1808年10月4日)、フェートン号事件が起こりました。イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人2名を人質にして、燃料や食糧を要求した事件として知られます。
当時、オランダはナポレオン戦争によってフランスの属国となっており、イギリスとは敵対関係にありました。そこでイギリスは東アジアにおけるオランダの商圏を奪うべく艦船を派遣し、オランダ船の拿捕を行なっていたのです。その影響が日本にまで波及したのが、フェートン号事件でした。
文化5年8月15日、オランダ船拿捕を目的とするフェートン号は偽ってオランダ国旗を掲げ、オランダ船を装い長崎港に入ります。これをオランダ船と勘違いしたオランダ商館員2名は、長崎奉行所のオランダ通詞を伴って、出迎えのために船に乗り込もうとしたところ、商館員2名は捕えられ、船内に連行されました。報告を受けた長崎奉行・松平図書頭康英は、直ちに人質を救出しようとしますが、フェートン号は大砲や銃を装備しています。そこで奉行は、湾内警備を担当する佐賀藩と福岡藩にフェートン号の焼き討ちもしくは抑留を命じ、さらに大村藩にも派兵を求めますが、各藩の対応は遅く、しかも警備担当の佐賀藩では、警備にあたる兵員の数を規定よりも大幅に減らしていたことが明らかになりました。
その夜、フェートン号が出島を襲撃するという噂が流れ、オランダ商館長(カピタン)のヘンドリック・ズーフらは奉行所西役所に避難し、戦闘回避を勧めます。一方、フェートン号では3隻のボートを下ろして、月明かりの中、長崎港内を悠然と偵察していました。 翌16日朝、誇らしげに英国旗を掲げたフェートン号は、人質1名を解放して、食糧・水・燃料を要求します。そして、もし要求が受け入れられなければ、港内の和船や唐船を焼き払うと恫喝しました。奉行の松平康英は激昂しますが、対抗するだけの武備がない以上、要求をのまざるを得ません。奉行所は水と飲料水を与え、オランダ商館も豚と牛を送ると、17日にフェートン号は残りの人質も釈放して港外に去って行きました。
その夜、自国を辱めた責任を取るとして、松平康英は奉行所西役所において、遺書をしたためた上で切腹を遂げます。また規定の警備兵の数を勝手に減らしていた佐賀藩の家老数人も責任を取って切腹、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直は幕府より100日間の閉門に処されました。この事件は幕府の外国に対する警戒心を大いに高め、文政8年(1825)に異国船打払令を発令する一つのきっかけとなります。また佐賀藩ではこの事件を契機に、次代の10代藩主・鍋島直正が藩政改革を行ない、財政を再建して海防の充実に力を注ぎ、維新の原動力の一つとなっていきました。
職務に忠実で責任感の篤かった長崎奉行・松平康英は、己の一命をもって間接的に時代を動かしたともいえるのかもしれません。
更新:11月23日 00:05