2017年08月14日 公開
2017年08月14日 更新
第二艦隊司令長官、上村彦之丞
明治37年(1904)8月14日、日露戦争における蔚山(ウルサン)沖海戦が起こりました。ロシアのウラジオ艦隊を、上村彦之丞率いる第二艦隊が破ったことで知られます。
上村にとってこの海戦は、半年間なめさせられてきた苦杯の恨みを晴らす一戦でもありました。明治37年2月の日露開戦後、上村の第二艦隊は日本海の警邏も担っていました。 ところが、ウラジオストックから霧に紛れて出撃しては、日本の輸送船を襲撃するロシアのウラジオ艦隊を捕捉できずにいたのです。特に6月15日、対馬海峡に出撃したウラジオ艦隊は、陸軍輸送船の和泉丸、常陸丸を撃沈、佐渡丸を大破させました。これによって陸軍将兵1743人が戦死、もしくは溺死します。この時、上村の第二艦隊は出撃に手間取ったこともあり、敵艦発見の報せを受けてから現場海域に到達するまで、7時間以上もかかっていました。当然ながら、ウラジオ艦隊は輸送船を沈めて、悠然と去った後です。
第二艦隊と上村に対し、国民から轟々たる非難が巻き起こりました。上村の屋敷に投石する者まで現われ、議会でも「濃霧濃霧と弁解するが、濃霧は逆さに読めば無能なり」と揶揄される始末です。とはいえこの時代、海図も不備なら通信技術も未熟、当然ながら偵察機もレーダーもありません。神出鬼没のウラジオ艦隊を捕捉するのは、容易ではありませんでした。しかし薩摩人の上村は悪罵に対しても笑って耐え、「いつか汚名返上を」と心中密かに期します。そして、上村の待望の機会は8月に訪れました。
8月10日、陸軍の旅順要塞攻撃が激しさを増して、港内に重砲弾が撃ち込まれるようになると、旅順のロシア太平洋艦隊が脱出を図って出撃。これに呼応して、ウラジオ艦隊の巡洋艦3隻も出動したのです。旅順のロシア太平洋艦隊は、黄海海戦において連合艦隊に敗れ、多くが旅順港に戻ります。一方、それを知らないウラジオ艦隊は、14日早朝、対馬海峡に近づきました。 夜明け前の対馬海峡で、上村の第二艦隊はついにロシア・ウラジオ艦隊と遭遇します。この時、ウラジオ艦隊が装甲巡洋艦3隻だったのに対し、第二艦隊は装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦4隻でした。
距離8400mまで接近した午前5時23分、上村が怒号します。「撃ち方、始め!」。第二艦隊の巡洋艦群の砲撃は次々とウラジオ艦隊に命中し、まずリューリックが炎上して航行不能となります。すると残りのグロムボイとロシアの2隻は勇敢にも、リューリックを救助しようとする動きを見せますが、2隻の損害もひどくなったため、北方に逃走を始めました。上村は旗艦出雲の艦橋に仁王立ちとなり、猛追撃をかけます。すでに敵の2隻は大破炎上していましたが、19ノットの高速を保っていました。上村は追いつつ砲撃を続け、もはや撃沈目前となった時、「残弾ナシ」と書かれた黒板を部下から提示されます。上村は悔しさのあまり、その黒板を床に叩きつけますが、砲弾がなくなっては、追撃はできません。上村は反転し、航行不能となったリューリックのところへ戻ると、同艦は傾斜してもなお、魚雷を放つなど、戦意を失っていませんでした。上村は敵艦の様子に「敵ながら天晴れ」と褒め、リューリックが自沈すると、生存者の全員救助と丁重に扱うことを命じます。これによってロシア将兵627人が救助されました。
この上村の決断と振る舞いは、国民が賞賛したばかりでなく、従軍記者によって全世界に報道されて、世界中の人々を感動させます。 フェアな精神として、今も各国の海軍教本に掲載されているといわれますが、当の上村にすれば武士として当然の処置だったでしょう。 いずれにせよ、この蔚山沖海戦でウラジオ艦隊の1隻を撃沈、2隻を大破させたことで、上村と第二艦隊はようやく、「無能」の汚名を挽回することができました。そして、この海戦から9ヵ月後のバルチック艦隊を相手どった日本海海戦において、上村の決断が大殊勲を挙げることになります。
更新:11月23日 00:05