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アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡

2017年07月14日 公開
2022年08月25日 更新

「帰ればまた来ることができる」

「将たる器に乏し」「臆病風に吹かれた」…。昭和18年(1943)7月17日、キスカ島突入を断念して幌莚〈ほろむしろ〉島に帰投した第一水雷戦隊司令官の木村昌福〈きむらまさとみ〉に、そんな心無い非難が向けられました。

キスカ島の将兵は必ず撤収させる…それが北方軍司令官・樋口季一郎が、アッツ島将兵を捨て石にする代わりに、大本営に認めさせた条件であったといわれます。

しかし、最新のレーダーを装備した強力なアメリカ艦隊が囲むキスカ島に接近するには、濃霧にまぎれて高速の軽巡洋艦や駆逐艦が敵の隙を衝いて突入し、短時間で守備隊を撤収させるしかありません。それは「激戦地に飛び込む以上の難事」と誰もが認めるものでした。

そんな難事にあたったのが、部下からの信望篤い木村昌福海軍少将です。7月7日、木村率いる水雷戦隊はキスカ島に向け出港、キスカ島では陸海軍将兵が、いつ救援艦隊が来てもよいように毎日、海岸に全員が整列して待機していました。しかし…。

阿武隈
写真:木村司令官が座乗した旗艦・軽巡阿武隈

7月10日、11日が当初の突入予定日でしたが霧が発生せず延期。13日、14日、そして燃料の関係で最後のチャンスの15日も、キスカ島自体は霧に包まれていますが、その南方は視界良好。木村は反転帰還を命じます。「帰ろう、帰ればまた来ることができる。作戦はまだ終わってはいない」。将兵を確実に救出するための木村の決断でした。

しかし、事情を理解していない軍の上層部は、突入を断念して戻ってきた木村に「なぜ突入しないのか。将たる器に乏しい」と酷評を浴びせたのです。木村はそんな非難を受け流し、全く動じません。

「また来る」という木村の言葉通り、水雷戦隊は22日、再びキスカ島に向けて出港。ところがその情報はアメリカ軍に探知されていました。2隻の戦艦、5隻の巡洋艦を基幹とするアメリカ艦隊が木村たちを待ち受けます。

ただ一つ、アメリカ軍の勘違いは、木村の艦隊が増援部隊を乗せていると思っていたことでした。アッツ島守備隊の奮戦ぶりから、キスカ島でもそれを上回る抗戦を日本は企図していると考えたのです。

突入予定の26日、濃霧の中、旗艦阿武隈に海防艦国後が衝突。この事故で突入が29日に延期されますが、それが幸運の始まりでした。

26日の夜、キスカ島から阿武隈に不思議な情報が入ります。「アメリカ艦隊が砲撃戦を行なっている」と。アメリカ艦隊は夜間にレーダーに映った影を木村の艦隊と認め、猛烈な砲撃を行ない、影が消えたことで全滅させたと判断、補給のため海域を離れました。

この影は、実は遥かかなたの島々の反響映像であったとされます。まるで天の配剤のような敵の隙を衝き、木村らはキスカ島に突入することを得ました。

キスカ島から全員が無事撤収した守備隊5,200人は、船上でアッツ島の方角を尋ねると、皆、帽子をとって深々と頭を下げ黙禱しました。この時、アッツ島の方角から「万歳」という声が聞こえたともいいます。アッツ島で玉砕した将兵を含め、救出部隊、守備隊全員が一丸となって導いた「奇跡」でした。

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