2017年12月11日 公開
2023年03月31日 更新
昭和12年(1937)12月12日、揚子江上において、日本海軍機がアメリカ海軍の砲艦パネー号を誤爆し、沈没させました。「パネー号事件」として知られます。
この事件に先立つ7月7日、盧溝橋事件が起こりました。日中戦争の発火点と呼ばれる、日本軍と中国軍の衝突事件です。
じつは、盧溝橋事件そのものはすぐに停戦協定が結ばれています。にもかかわらず、この事件以後、日本軍に対する中国側の挑発が繰り返されたという事実は、あまり知られていないかもしれません。
・7月13日の大紅門事件で日本兵4人が死亡
・同25日の廊坊事件で日本軍に14人の死傷者
・同26日の広安門事件で日本軍に19人の死傷者
・同29日、通州事件で女性や子どもを含む日本人居留民260人が殺害
こうした知らせに日本国内で怒りの声が上がる一方、上海の日本総領事は緊迫する事態に在留居留民の租界内への避難を呼びかけます。すると8月13日には5万の中国軍が、租界を守る4000人の日本海軍陸戦隊を攻撃します。第2次上海事変です。15日には陸軍の上海派遣軍が駆けつけ、10倍以上の中国軍を相手に租界内を守っていた陸戦隊は辛くも凌ぎ切り、中国軍を敗走させます。
そして日本軍は追撃に移り、中国軍の拠点で国民党政府の首都である南京攻略を目指します。日本軍の接近を前に、南京では蒋介石をはじめとする政府首脳が続々と脱出、無政府状態に近い状態となり、南京防衛司令官までが幕僚とともに逃げ出しました。 しかし彼等は兵たちには徹底抗戦を命じており、逃げられぬようトーチカに鎖で縛られた兵もいたといわれます。
船で脱出する中国軍将兵も少なくありませんでした。その際、中国兵は第三国の国旗を掲げて偽装することが頻繁に行なわれています。日本軍にすれば、どれが本物の第三国船で、どれが偽装して脱出する船かわからない状態でした。そうした中、南京から脱出するアメリカ人を乗せて、揚子江をさかのぼっていたアメリカ海軍の砲艦パネー号が、日本海軍機の誤爆を受けて沈没、3人の死者と48人の重軽傷者を出します。これがパネー号事件です。
この事件を機に、日米関係は一気に緊迫しますが、特筆すべきは当時の大多数の日本人の反応でしょう。事情はどうあれ誤爆は誤爆。犠牲となったアメリカ人にたいへん申し訳ないことをしたと、多くの日本人がアメリカ大使館を訪ねて、謝罪したのです。その中には有名女優や政府高官の妻たちもおり、ある女性は自らの髪をばっさりと切り落として詫びたといいます。また犠牲者に対する募金活動も行なわれ、子供たちも小遣いをはたいて義捐金に応じました。ある小学生は「重大な間違いをお詫びし、米国大使館が寛大にお許しくださることをお願いします。僕はアメリカが大好きです。米国万歳。さようなら」と記した手紙を送り、ジョセフ・グルー駐日大使に感銘を与えました。
一方、アメリカ本国では、斎藤博大使が自らの判断でラジオ局の番組を買い取り、「私は日本国民を代表し、全米の皆様に、ただただ深くお詫び申し上げます」と涙声で繰り返し謝罪しました。 この斎藤の放送は米国民の胸を打ちました。放送を聞いたアメリカ人は「武士道を心得た外交官」と称賛し、握手を求める市民もいたといいます。
パネー号事件そのものは、日本政府が率直に非を認め、賠償金支払いを即決したことにより、異例の短期間で決着がつきました。しかしパネー号には実は日本軍から盗んだ軍事機密が積まれていたこと、また一緒に航行していたタンカーには、中国空軍のための燃料が積まれており、中国に利する行動を取っていたことも指摘されています。
歴史は善悪で判断すべきものではなく、客観的な検証が必要です。ただ、この不幸な事件に誠実に向き合い、心から遺憾の意を表明した当時の日本人の姿勢・態度は、歴史の事実として受け止めておきたいものです。
更新:11月23日 00:05