2016年11月21日 公開
2018年12月14日 更新
山本常朝肖像画(通天寺蔵)
討入りにより本懐を遂げ、《義士》と称賛された赤穂浪士であったが、『葉隠』では、その討入りを次のように「批判」している。
又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが落度〈おちど〉なり。又主を討たせて、敵を討つ事延び延びなり。若〈も〉し、その内に吉良殿病死の時は残念千万なり。上方衆は智慧〈ちえ〉かしこき故〈ゆえ〉、褒〈ほ〉めらるゝ仕様〈しよう〉は上手なれども、長崎喧嘩〈けんか〉の様に無分別にする事はならぬなり。(『校註葉隠』五六)
常朝は、①吉良を討ち取った直後に泉岳寺で切腹しなかったこと、②刃傷事件により内匠頭が切腹してから、吉良を討ち取るまでに一年九か月の間を置いていること、③討入りのような用意周到で衆目〈しゅうもく〉を賑〈にぎ〉わすようなやり方はできても、無分別な喧嘩ができないこと、という三点を批判している。
そもそも、この「浅野殿浪人夜討」の話は、『葉隠』で、喧嘩における「打返〈うちかえ〉し」のあり方について論じる際、その反例として登場している。常朝の考えはこうである。
何某〈なにがし〉、喧嘩打返しをせぬ故恥になりたり。打返しの仕様は、踏懸〈ふみか〉けて切殺〈きりころ〉さるゝ迄〈まで〉なり。これにて恥にならぬなり。仕果〈しおお〉すべしと思ふ故、間に合はず。向〈むこう〉は大勢などと云〈い〉ひて時を移し、しまり止めになる相談に極るなり。相手何千人もあれ、片端〈かたはし〉より撫切〈なでぎり〉と思ひ定めて、立向〈たちむか〉ふ迄にて成就〈じょうじゅ〉なり。多分仕済ますものなり。(『校註葉隠』五六)
「喧嘩」は、近世社会においては基本的に禁止された行為であった。もし喧嘩に及べば、仕掛けた者、仕掛けられた者ともに処罰される、いわゆる《喧嘩両成敗》である。その前提の中で、常朝はあえて喧嘩になってしまったら、「打返し」をしなければ「恥」になると述べる。法に遵〈したが〉い喧嘩に耐えれば、武士としての恥辱が待っている、と。
そして仕掛けられたら「踏懸けて切殺さるゝ迄」とする。常朝が重要視するのは、《その場で》=当座で受けて立つことである。思案して「時を移し」たり、「間に合はず」ということをよしとしない。それ故、討入りまで1年9カ月も間を置いた赤穂浪士は、批判の対象であった。『葉隠』の有名なフレーズである「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の後には、こう続く。
二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に子細〈しさい〉なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。…毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身〈じょうじゅうしにみ〉になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕果すべきなり。(『校註葉隠』三)
常朝にすれば、重大な局面で用意周到に振る舞うことは、「上方風」の思い上がった「武道」なのである。「犬死」は恥にはならず、「常住死身」の覚悟ゆえに当座で決着をつけることこそが肝心なのであった。
『葉隠』と「赤穂事件」、それぞれのキーパーソンである山本常朝と大石内蔵助。実は、ともに万治2年(1659)生まれで同い年である。乱世を知らず泰平の世に生を受けた二人が、方法は異なるが、武士の《生き様》を問い直す一石を投じたのであった。
常朝は、泰平の世における「鍋島侍」としての御家への奉公のあり方を思索する中で、主君に諫言〈かんげん〉することが「奉公の至極の忠節」(『校註葉隠』三四三)、と考えるに至る。
そこで常朝は、家老になるために「二六時中工夫修行にて骨を折り、紅涙〈こうるい〉までにはなく候〈そうら〉へども、黄色などの涙は出で申し候程に候」(『校註葉隠』三四三)と、苦労を重ねた。しかし、結局家老にはなれず、その上、仕えるべき主君も没してしまい、殉死も叶わなかった。
ならば、と常朝は、誰よりも早く出家して、ひたすら光茂の菩提を弔うことで主従の整理をつけようとした。そうした中、江戸において、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が殿中〈でんちゅう〉で吉良上野介義央へ刃傷に及ぶ事件が起こる。内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易。その後、筆頭家老であった大石内蔵助良雄を中心とする浪士たちは吉良邸に討入り、亡主の無念を晴らした。そして武士として切腹する機会が与えられ、最期を迎えたのであった。
ある意味、絶妙なタイミングである。光茂が元禄13年(1700)に亡くなり、翌14年に刃傷事件が起こり、さらに翌15年の討入りである。常朝の眼に、この一連の「赤穂事件」はどう映ったのだろうか。御家への究極の奉公を目指して家老になるべく、「黄色の涙」を流してまで努力を重ねたものの、家老にはなれなかった常朝。さらに光茂の命により、殉死もできなかった常朝。片や、赤穂浅野家筆頭家老の家に生まれ、家老職を全〈まっと〉うした内蔵助。討入りを果たして武士としての最期を遂げた内蔵助。常朝が究極的に求めたものを、内蔵助は持っていた。
『葉隠』における赤穂事件への常朝の所感には、こうした「同い年」の内蔵助に対する眼差〈まなざ〉しもあったのかもしれない。いささか邪推に過ぎるであろうか。
更新:11月22日 00:05