2017年06月02日 公開
2021年08月16日 更新
南部坂(東京都港区赤坂)
坂の名称は、江戸時代初期、近隣に南部家中屋敷があったことに因む。「忠臣蔵」の名場面、大石内蔵助が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる。
正徳4年6月3日(1714年7月14日)、瑤泉院が亡くなりました。浅野内匠頭長矩の正室・阿久里で、「忠臣蔵」の雪の南部坂の名場面でよく知られています。
延宝2年(1674)に備後三次藩主・浅野長春の三女に阿久里は生まれたといわれますが、誕生は寛文9年(1669)であるとする説もあり、最近は後者の方が有力であるようです。ここでは便宜上、寛文9年生まれとします。
延宝5年(1677)、播州赤穂藩主・浅野長矩との婚約が成立、6年後の天和3年(1683)に婚儀が行なわれ、15歳で長矩の正室となりました。阿久里は美しく、夫婦仲は睦まじかったといいますが、子宝に恵まれず、元禄8年(1696)に長矩の弟・長広を養子にします。これは同年、長矩が疱瘡を患って一時危篤となったための、緊急の措置でもありました。
元禄14年(1701)、夫・長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだため、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は領地没収となりました。阿久里は16日には赤坂今井町にある実家の三次浅野家に引き取られ、落飾して瑤泉院と称します。実はこの刃傷の時まで阿久里が暮らしていたのが、南部坂の赤穂浅野家下屋敷でした。
阿久里が実家に引き取られた直後、南部坂の屋敷は幕府が接収してしまいますので、あの大石内蔵助が訪れる、「南部坂雪の別れ」の名シーンはあり得ない、ということになります。しかし、それではあまりに味気ないので、少し、その名シーンを紹介してみましょう。
元禄15年(1702)、大石内蔵助は討入りの前日、南部坂の屋敷に暮らす瑤泉院に会いに行きます。明日未明の討入り決行を伝え、同士の連判状を渡すとともに、内匠頭の霊前に報告をしたいところですが、屋敷内に吉良方の間者が潜入している可能性があり、それもなりません。
「さる西国の大名に召抱えられることになりました。再びお目にかかることもないかと存じます。本日ここに東下りの旅日記を持参いたしました」と断腸の思いで偽りを伝えます。「忠義の心も忘れたか」と怒り、席を立つ瑤泉院。黙って辞去した内蔵助は、降りしきる雪の中、今生の別れを背中で伝えて坂道をゆきます。
しばらくの後、内蔵助が置いていった旅日記が、実は連判状であったことに気づく瑤泉院のもとに、討ち入りの知らせが届きます。大石の別れの意味を初めて悟った瑤泉院は、短慮を悔い、亡き夫の霊前に合掌するのでした……。
芝居によって多少の違いはありますが、「忠臣蔵」では欠かせない名シーンです。 実際は、内蔵助は討入りの半月ほど前に、瑤泉院付きの家老の落合与左衛門に会って、瑤泉院から預かった金銭の決算報告をしており、そうした話からこの南部坂の場面が創作されたのだろうといわれます。たとえ創作であっても芝居ではこのシーンは外してほしくないと思いますが、いかがでしょうか。
その後、瑤泉院は赤穂浪士の討入りの後、遠島に処された浪士たちの遺児の赦免運動に奔走し、4年後に実現させています。そして正徳4年、三次浅野家下屋敷で亡くなりました。享年46。
更新:11月22日 00:05