2015年07月15日 公開
2023年10月04日 更新
今年7月上旬、「明治日本の産業革命遺産」の構成施設のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録された長崎県の端島(はしま)、通称「軍艦島」。登録直前に軍艦島を巡って日韓で論争が繰り広げられたこともあり、注目を集めました。
ここでは、その歴史を簡単ながら紹介しましょう。
軍艦島は2009年に一般の観光客への上陸規制が緩和され、以降、たびたび注目を集めてきました。
2009年には日本を代表するアーティストのB’zがこの地でミュージックビデオを撮影し、今夏、公開される話題の映画「進撃の巨人」のロケ地にもなっています。
現在、整備された一部のエリアは観光客も入れるようになり、ツアーもいくつか催行されています。私も5年前に訪れましたが、天候によってはツアーが中止になるため、祈るような思いで当日を迎えたのを今でも覚えています。
端島が「軍艦島」と呼ばれる由来は、至るところで解説されているように、島のシルエットが軍艦を彷彿とさせるからです。軍艦といっても闇雲ではありません。当時、戦艦土佐に似ていると言われたことから、「軍艦島」と呼ばれるようになったといいます。
軍艦島の大きさは、南北が約480m、東西が約160m。しかし、これは実は人工的に埋め立てた結果であり、もともとはこの3分の1程度の大きさでした。最盛期には5,000人以上が暮らしていたこともあり、人口密度は現在の東京都の9倍! 高層ビルがいくつも建っているのは、当時の人々の工夫でした。
戦艦土佐(上)と端島(軍艦島)
軍艦島はかつて、石炭産業で栄えました。実のところ、いつから用いられていたかははっきりとはしていないのですが、明治維新を迎える前には石炭が発見されていたのは確かなようです。
転機となったのは1890年、三菱財閥の手に渡ってからでした。以降、飲料水が供給され、小学校が建設され、はたまた島の周囲が埋め立てられるなど姿を変えていきます。
日本で初めての鉄筋コンクリート造の集合住宅(三十号棟)が建てられたのは、1916年のことでした。私も間近で見ましたが、迫力に圧倒され、廃墟というよりも芸術品のように感じられました。
この三十号棟には中庭があり、1フロアに20戸、合計で140の部屋がありました。しかし間取りは6畳一間であり、1部屋に3,4人が暮らしたといいますから、さぞ狭かったことでしょう。しかし一方で、戦後には白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」は100%の普及率だったといい、当時の人々の暮らしぶりがうかがえます。
なお、軍艦島でもっとも大きな建物が六十五号棟。1945年に建てられ、最大で1,500人が暮らしました。保育園、庭園、さらにはプールまでが設置されたといいますから、驚きです。
しかし、驚きは続きます。軍艦島には、なんとエレベーターもありました。
これは、炭鉱夫が海底炭鉱に行くためのものです。炭鉱夫はエレベーターで約600mを下ると、そこから2.5kmを歩き、さらに階段を480m進んで炭鉱の入口に入りました。
炭鉱は、体感温度40度、湿度は96%以上。極めて厳しい環境で、文字通り、想像を絶します。
そうした状況においても、炭鉱夫たちは懸命に作業にあたったといいます。軍艦島に限りませんが、こうした方々の存在があればこそ、近代日本の産業の発展があったのでしょう。
そもそも軍艦島に注目が集まったのは、巷での「廃墟ブーム」もあったでしょう。しかし、いざ足を運べば、廃墟ならではの雰囲気もさることながら、「実際にここに人が住んで働いていた」ということが肌で実感できます。
現在、軍艦島には倒壊の可能性もあるといいますが、その一方で長崎市が対策に当たっています。今回、世界遺産に登録されましたが、その歩みを見ていくと、世界遺産という冠がなくとも、往時の日本人に思いを馳せることができる貴重な遺産であることが分かるでしょう。(水)
更新:11月21日 00:05