2015年05月21日 公開
2023年04月17日 更新
田中舘の故郷、二戸の男岩・女岩
今日、5月21日は、日本が誇る明治の科学者・田中舘愛橘〈たなかだて・あいきつ〉の命日です。
苗字も名前も珍しい彼は、岩手県二戸市の出身。航空物理学を専門としながらも、日本でのローマ字やメートル法の普及にも努めるなど、幅広い業績を残しました。
田中舘愛橘は、安政3年(1856)、南部藩士の家に生まれました。両親の教育は厳しく、早くから英語やフランス語を流暢に操ったといいます。その一方で、故郷の二戸弁だけは生涯抜けきることがなかったというところには、どこか人間味が感じられます。
田中舘は藩校で学んだのち、一家で東京に移住し、東京大学で物理学を専攻します。
当時の日本には、まだ物理学など浸透しておらず、周囲からは「そんなものを専攻して、何で飯を食う気だ?」と反対を受けたそうです。しかし田中舘は、「飯は箸と茶碗で食う」とすまして答えたとのこと。
卒業後はイギリスやドイツに留学して学識を深め、帰国後、東京帝国大学理科大学の教授の座につきました。
その年、明治24年(1891)10月、濃尾地震が発生します。死者は2万人超。文部省の命を受け、翌月震源地へ調査に出向いた田中舘は、根尾谷の断層を発見。調査から戻ると、
「地震そのものは何とも致しようがないとしても、それから生ずる災害は、国家を挙げて予防策を練るべきだ」
と、地震研究のための機関設立を建議します。結果、翌年「震災予防調査会」が設置されることになりました。
明治27年(1894)、田中舘は38歳のとき結婚しますが、たった1年後、娘が生まれてまもなく、妻を亡くします。
その後も再婚することなく、男手ひとつで娘を育て上げました。
仕事で海外に行き帰国するたび、娘を連れて妻の墓前へ参ったといいます。
さて、愛妻を失った悲しみを乗り越えた田中舘の研究対象は、地震だけには止まりませんでした。
明治37年(1904)の日露戦争時、陸軍の要請で気球の研究を始めたことを機に、航空物理にも興味を抱くようになります。
5年後には、上野の不忍池畔で有人飛行に成功。これが日本初の近代的航空機です。
田中舘は欧米の進んだ航空技術を吸収すべく、毎年のように海外の学会に参加し、研究を進めていきましたが、そのうちに「欧米と足並みを揃えた日本語」の必要性を痛感するようになります。
当時のローマ字は、「ヘボン式」が一般的でしたが、これは英語の発音に基づいており、日本人の感覚からはいささかずれているものでした。
例えば、
「さしすせそ」をヘボン式では「sa shi su se so」、「たちつてと」を「ta chi tsu te to」と表記しますが、「shi」や「chi」「tsu」だけ規則から外れているのは、日本人からすると扱いにくいものです。
そこで田中舘は、もっと日本語の五十音に即したものを、と「日本式」のローマ字綴りを編み出します。
「sa si su se so」「ta ti tu te to」とシンプルに表記するこの方法でもって、田中舘はローマ字を、研究の傍ら生涯かけて普及してくことになります。
ローマ字を国字にすべきだ、と主張し、日常のメモもすべてローマ字、漢詩すらもローマ字で作った……という田中舘の振る舞いは、行き過ぎていたのかもしれません。
日本語すべてをアルファベットで表記しようとは、現実問題、無理な話でしょう。
しかし田中舘がローマ字にこだわったのは、決して単なる気まぐれでも、日本語や日本という国をおろそかにしていたからでもありませんでした。
むしろ、国際社会の舞台で存在感を増し始めた日本の今後を思い、日本の文化と欧米とが寄り添って発展していくためのひとつの策として、ローマ字を推進したのです。
田中舘は、国際会議で、次のようなことを述べています。
喩えていうならば、広い公園に草木を植えて、同じ日当たりと雨露に育てても、みなそれぞれの生まれつきの特性――柳はみどり、花はくれない――に従い栄えていく。そんなふうに、この地球の上で、言語、風俗、宗教などがさまざまに異なる国家や民族が、互いに相手の建前と持ち前とを重んじて、正義と人道の上に平和を保たねばならない。(要旨)
明治が誇るべき物理学者でありながら、まるで外交官のように国際会議にも飛び回る……。
維新の激動期を生き抜いて、目まぐるしく発展する日本を内からも外からも支えた田中舘愛橘は、昭和27(1952)の今日、95歳の大往生を遂げました。
更新:11月23日 00:05