2017年07月20日 公開
2019年07月02日 更新
明治45年(1912)7月20日、糸川英夫が生まれました。「日本の宇宙開発、ロケット開発の父」として知られます。
糸川英夫は明治45年、東京麻布に生まれました。父親は小学校教師です。 昭和10年(1935)、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。ちなみにその8年前に、同科を首席で卒業したのが、零戦(零式艦上戦闘機)開発で知られる堀越二郎です。 卒業後、中島飛行機に入社。陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機隼、二式単座戦闘機鍾馗の開発に携わりました。特に名戦闘機隼の空力設計を担当した糸川の隼とのつながりは、後年、ユニークな縁となります。
昭和16年(1941)11月、東京帝国大学第二工学部助教授に就任。航空関係の技術開発にあたりました。しかし昭和20年(1945)、敗戦により占領軍から航空機の研究を禁止されてしまいます。昭和23年(1948)、東京大学教授に就任。翌年、音響工学で博士号を取得しました。 この頃は航空開発から離れざるを得なかったため、医療電子機器及び音響学の研究を行ない、脳波や心電図測定器を開発しています。かたわら自らバイオリンの設計と製作もしました。
昭和27年(1952)、講和条約の締結により航空の禁止が解かれると、2年後には東京大学生産技術研究所内に航空工学、電子工学、空気力学、飛行力学などの分野の研究者を集め、本格的に日本のロケット研究をスタートさせます。 AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)研究班と呼ばれるものでした。 このAVSA班は、20年後(1975年)までに20分で太平洋を横断する「ハイパーソニック輸送機」の実現を目指していたといいます。まだ敗戦から10年も経たぬうちに、なんとも気宇壮大な構想を持っていたというべきでしょう。
昭和30年(1955)、糸川は東京国分寺市の新中央工業跡地で、ペンシルロケットの水平発射実験を行ないました。これは全長23cmの超小型火薬式ロケットで、鉛筆のように見えることからペンシルロケットと呼ばれます。同年、高層大気観測を行なう方針が決定し、AVSA班はロケット輸送機の開発から、観測用ロケット開発に転じることになりました。 同年8月には、ペンシルロケットよりも大きい、全長124cmのベビーロケット数種類を秋田県で打ち上げ、飛翔データを取っています。その後、昭和35年(1960)には地球観測用のカッパロケットK-8-1が高度190kmに到達し、世界で初めてイオン密度を測定しました。 昭和39年(1964)には東京大学宇宙航空研究所を発足。同年、ラムダロケットL-3-1が高度1000kmに到達します。
しかし昭和41年(1966)には2度のラムダロケット打ち上げに失敗。翌年、糸川は東京大学を退官して、組織工学研究所を設立。56歳にして、宇宙開発から引退しました。ロケット開発にはさらに逆風が吹き続け、昭和42年(1967)、昭和44年(1969)にもラムダロケット打ち上げに失敗。昭和45年(1970)、ラムダロケットL-4S-5が日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げに成功します。糸川もようやく愁眉を開いたことでしょう。
昭和47年(1972)、糸川の著書『逆転の発想』が.ベストセラーとなります。その後も糸川はバレエを演じたり、自ら手がけたヴァイオリンでコンサートを開くなど、多才ぶりを発揮しました。平成11年(1999)、療養先の長野県丸子町の病院で没しました。享年86。
4年後の平成15年(2003)、ミューロケットM-V-5で打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」がサンプリングリターンを行なった小惑星25143は、同年8月、糸川にちなんで「イトカワ」と命名されました。つまり糸川の名前にちなんだ小惑星に、糸川が開発した戦闘機と同名の探査機が降り立ち、サンプルを回収したことになります。平成22年(2010)、「はやぶさ」は地球に帰還を果たしました。
最後に糸川が残したという言葉をいくつかご紹介します。
「人生で大切なのは、失敗の歴史である」
「目標に向かって、一段ずつ階段を上っていく上で、一番肝心なことは、必ず最初の一段を上がるということである。そしてまた次に一段上がるということである」
「『自分にできること』よりも、『世の中が求めていること』に挑戦し続けた方が、人生も楽しい」
更新:11月23日 00:05