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二宮忠八~ライト兄弟に先んじて人類初の動力飛行に成功した日本人

2017年04月29日 公開
2019年03月27日 更新

4月29日 This Day in History

飛行機雲

今日は何の日 明治24年4月29日

二宮忠八が人類初の動力飛行に成功

明治24年(1891)4月29日、二宮忠八が製作した飛行機(器)が動力飛行に成功しました。ライト兄弟に先んじること12年、人類初の動力飛行の成功です。

慶応2年(1866)、伊予国宇和郡八幡浜に生まれた忠八は好奇心旺盛で、自作の凧を作っては揚げて喜ぶ子供でした。明治22年(1889)、丸亀歩兵第12連隊に入隊していた24歳の忠八は、野外演習の帰途、峠道で昼食中に、食べ物をねらって滑空してくるカラスに注目します。カラスは羽ばたかず滑るように舞い降り、上昇する時は一、二度羽ばたいて上昇気流に乗って舞い上がります。忠八は翼に受ける空気の圧力によって、浮き上がる力(揚力)が働くことに気づき、固定翼によって滑空して空を飛ぶことを思いつきます。レオナルド・ダ・ヴィンチ以来、飛行機の開発は翼を羽ばたかせることのみ試みられており、固定翼で滑空させるという忠八のアイデアは世界的に画期的なものでした。

それからの忠八は、揚力を体得しようと番傘を持って橋の欄干から飛び降りたり、寝る時間を削って飛行機の製作にあたります。そして明治24年4月29日夜、丸亀練兵場で模型飛行機の飛行に成功します。高度約1m、飛行距離約30m。人類初の動力飛行、成功の瞬間でした。忠八はこの実験機を「カラス型飛行器」と名付けてさらに改良を重ね、明治26年に「玉虫型飛行器」と名付けた大型飛行機を製作、あとはエンジンさえ開発すれば完成する段階でした。

しかし、翌年から日清戦争が始まり、忠八も戦地に赴きます。激戦の中で忠八は、飛行機が開発できれば空中から偵察でき、物資の輸送も飛躍的に向上すると考え、上官に訴えます。上官は旅団参謀の長岡外史に上申書を提出しますが、長岡は「軍務多忙」を理由に却下しました。軍は理解してくれないと諦めた忠八は軍籍を離れ、働きながら資金を貯めて、明治36年(1903)秋には独力で全長5.4m、翼幅1.2mの玉虫型飛行器を製作。あとはオートバイ用のエンジンを搭載すれば完成でした。

ところがその年の12月17日、アメリカのライト兄弟が有人飛行に成功したと新聞で報じられます。忠八は拳を握り締め、涙を流しながら、長年かけて製作した飛行器を叩き壊し、飛行機製作から手を引きました。

大正8年(1919)、54歳の忠八は同郷の白川義則中将と会席した折、かつて飛行機開発に心血を注いだことを話すと、白川は興味を持ち、忠八から資料を借り受けました。すると資料は帝国飛行協会の記者を驚かせ、機関誌に大々的に掲載され、さらにその記事を読んだ陸軍航空本部長の井上幾太郎が「欧米先進国に先駆けた未曾有の出来事」と激賞します。かつて忠八の上申を却下した長岡外史も、自分の不明を恥じ、忠八に謝罪しました。

そして大正15年(1926)、忠八の偉業が認められ、帝国飛行協会総裁・久邇宮邦彦王より「有功章」を拝受する栄誉に浴しました。昭和39年(1964)には英国王室航空協会が玉虫型飛行器の模型を展示し、「ライト兄弟よりも先に飛行原理を発見した人物」として世界に紹介します。

しかしそれに先立つ昭和11年(1936)、忠八は他界しました。生涯で1度だけ飛行機に乗った忠八は「若い頃、毎晩のように飛行機に乗る夢を見たが、実際の飛行機はそれと少しも違わなかった」と語ったといいます。

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